Stellar Calendar

高校受験を控えた中学3年生のある日のお話です。

「おー、晴れたなー」
真っ青に澄み渡る空を見上げて、慶ちゃんが足を止める。
「ああ。こんなにも気持ちよく晴れたのは久々だな」
続いて、芽生ちゃんも足を止め、頭上を見上げた。
慶ちゃんたちの言うとおり、今日は雲ひとつないほどいいお天気で、でも、日差しも眩しすぎず、気持ちのいい風も吹いていて過ごしやすい気候だった。
私もそれに倣おう……と思ったけれど、どうも周りの視線が気になって慶ちゃんや芽生ちゃんから距離を置いてしまう。
空を見上げるふたりは、私ですら「絵になるな」と思うぐらい、やけに存在感があった。
ふたりとも改めて見ると整った顔立ちをしているし、芽生ちゃんは大人みたいに背も大きい。
慶ちゃんは、立ち居振る舞いにハッと息を飲むような力強さがあった。
慶ちゃんたちの噂は学年が違う私にも伝わってくるぐらいだから、多分、私が知ってる以上に、ふたりはケンカとかちょっと悪いことや恋愛事をたくさん経験しているのだろう。それこそ立ち居振る舞いに出るぐらい。そう考えると、複雑な気持ちになるけれど、とにかく、そんなふたりが並ぶと人目を引く。
つまり、ショーやアトラクションよりも芽生ちゃんと慶ちゃんのことが気になる人――主に女の人は結構いる……らしい。
(さっきから、痛いぐらい視線、感じるし……)
今も、すれ違った女の人が、ふたりを見て足を止めている。
(昔はこんな風に注目されてなかったと思うんだけど……)
考えて、別の意味で注目されていたかもしれないと思い直す。
あの頃の私たちは同じ年頃の子どもたちよりも元気いっぱいで、遊園地に連れてきてくれたお父さんやお母さん、おじさんやおばさんを振り回していたと思う。
大声ではしゃぎ回る私たちは、きっと周りの人たちから「元気だなー」なんて笑われていただろう。もしかしたら、「うるさいな」って睨んでいた人もいるかもしれない。
でも、そんなの気づかないぐらい私たちは遊ぶことに必死で、はしゃぎ回っていた。
(みんなで遊ぶ時は、いつもこんな風に晴れた空だった……)
お父さんやお母さん、おじさんやおばさん、そしてお兄ちゃんたちが、口を揃えて「みんなが揃うと晴れるね」と笑うぐらい。
そう、誰かひとりでも欠けると、曇ったり雨が降ったりもする。『晴れ男・晴れ女』のパワーが発揮されるには、『全員が揃うこと』という条件があった。
――だから、最近はどこかに遊びに行く時も、この思い出深い遊園地にくる時も、晴れるとは限らない。
昔と同じ空の下、昔より大きく成長した慶ちゃんと芽生ちゃんが並ぶ様子を眺めていると、不意に慶ちゃんが空から目を下し、こっちを見た。
「……ん? なに、離れた場所で我関せずって顔してんだよ」
そして、私の方へと歩いてくる。
「どうしたんだ?」
芽生ちゃんも私を見て、慶ちゃんの後に続く。
「あ……ええっと――」
どう誤魔化そうと視線を泳がせていると、目の前までやってきた慶ちゃんがガシッと締め付けるように首に手を回し、私に身を寄せてくる。
「なーに、澄ました顔で突っ立ってんだよ。遊園地に来たいつったの、オマエだろうが」
「そうそう、楽しまないとね」
芽生ちゃんも最近は険しい表情ばかりしてる顔に優しい笑みを浮かべて、息が届きそうな距離で覗き込んでくる。
私たちを見守っている女の人たちから、「きゃーっ!」と声にならない悲鳴が聞こえた……気がした。
「……ねえ、慶ちゃんと芽生ちゃんって、モテる?」
「は? なんで、そんなこと気にするんだよ?」
「さあな? そういうことは、自分ではよくわからないから」
恐る恐る尋ねてみると、慶ちゃんは顔をしかめ、芽生ちゃんは困ったように眉尻を下げた。
「つーか、知りたきゃ、自分の目で見に来いよ」
「そうだな。希望校合格したって旬兄に報告できるようにしないと」
「……うん」
ふたりの言葉に思わず身体に力が入る。芽生ちゃんたちが通う学校は結構偏差値が高くて、今、その合格ラインを目指して猛勉強中だった。
この間の模試の結果はギリギリA判定。そのお祝いかつ息抜きを兼ねて、今日は遊園地に連れてきてもらってる。
行き先のリクエストにここを告げたら、芽生ちゃんは「またか?」と苦笑いして、慶ちゃんは「そろそろ新規開拓しろよ」なんてため息をついてたけど、いつも通りここに連れてきてくれた。
「たまには旬兄とも遊園地、来たいけどな」
「こっちにいる時も、あんまり付き合ってくれなかったからね」
話題をお兄ちゃんのことに移して、ふたりはようやく私を解放してくれた。
そうして、また空を見上げる。
この空は遠く、お兄ちゃんがいる国まで繋がっているから。
「んじゃまあ、遊ぶか」
「どれからいく?」
そう言って、慶ちゃんと芽生ちゃんが歩き出したので、突き刺さるような視線が少し弱まった。
そのことにホッとしつつ、私もふたりの後に続く。
そうして、歩きながらさっきのふたりみたいに空を見上げた。
綺麗に晴れた空。最近ではあまり出会えない、昔みたいな青い空。
(……もしかしたら、今日は『揃ってる』のかもしれない)
そんなことを思う。
だって、ここに来たいと思ったのは、『夢』を見たから。泣きたくなるほど懐かしい人の夢を――。
(もちろん、慶ちゃんにも芽生ちゃんにも言えないけれど……)
そんなことを考えていると、賑やかなやりとりが耳に飛び込んできた。
「――お兄ちゃんだろ」
「……っ!」
思わず足を止めた。
声が響いてきた方を振り返ると、落下系のアトラクションの前でちっちゃい男の子たちがわいわい言い合ってる。
「お兄ちゃんとか関係ない! ……高いとこ、ヤなんだよ」
「へーんなの。遠くまで見えるし、気持ちいいのに」
どうやら乗るのを渋っている子がお兄ちゃんで、乗ろうと誘っている子が弟らしい。
どっちも、小学生ぐらいだろうか。
近くのベンチでお父さんお母さんらしき人が苦笑いを浮かべながら見守っているので、散々あれこれ振り回した後、休憩の時間すら惜しんで新しいアトラクションに挑戦しようとしているみたいだった。
(ひとつかふたつ違いかな? それとも――双子?)
気づけば胸の前でギュッと手を握っていた。あの男の子たちを見ていると、昔の慶ちゃんとカズちゃんを思い出す。
お兄ちゃんである慶ちゃんがアトラクションを怖がっていたのも同じ。
(慶ちゃんが苦手だったのは、ジェットコースターだったけど……)
乗りたくないと嫌がる慶ちゃんの手を、芽生ちゃんとカズちゃんが引っ張っていた。「こわくないよ」なんていいながら。
愛おしくて切ない気持ちが、固く閉ざしていた蓋を持ち上げて胸の中に湧き上がってくる。
もう戻れない日々。
あの頃のまま、時間を止めてしまったカズちゃん。
私は天を仰ぎ、大きく深呼吸をした。
私たちは――私と慶ちゃんとカズちゃん兄弟、そして芽生ちゃんは、この遊園地に遊びに来るのが大好きだった。だからこそ、今、こうやってこの場所に立つと昔の気持ちが蘇って寂しくなる。
(それでも、来たくなるんだよね……)
来ればあの頃に戻れる……と、思っているのかもしれない。
そして、今日みたいないいお天気になると、私と慶ちゃん、芽生ちゃんだけじゃなく、カズちゃんも揃っているように感じる。
それは、多分錯覚。
でも、とても愛おしくて切ない勘違い。
その感覚に浸るため、私は――私たちは何度もこの遊園地に『帰って』くる。
「…………はぁ」
大きく息を吸って吐くと、少し気持ちが落ち着いた。
滲みそうになった涙も堪えることができたので、空から目を下し、先を行く芽生ちゃんと慶ちゃんを見る。
「……え?」
でも、目の前にはふたりの姿はなかった。
「芽生ちゃん? 慶ちゃん……?」
名前を呼びながら、きょろきょろとあたりを見回したけれど、どこにもふたりの姿はない。
(はぐれちゃった……!)
男の子たちに気をとられていて、前を行く芽生ちゃんと慶ちゃんの姿を見失ってしまった。しかも、今日はそこそこ人がいっぱいで、デートを楽しむカップルや家族で思い出を作ってる人たちが幾重にも重なって、連なる壁のように芽生ちゃんと慶ちゃんの姿を隠してしまっている。
血の気が引くのがわかった。
(次、どこに行くって話してたっけ……?)
さっきまで目の前で繰り広げられていた会話を思い出しながら、人波を縫って走り出す。
私がいなくなったことに気づいたふたりは、きっと真っ青になって走り回っているだろう。慶ちゃんたちの気持ちを考えると、申し訳なくて苦しくて泣きたくなった。
――と。
「うおっ!?」
あまりにも慌てていたためか、すれ違う時、別方向からやってきた人と肩が当たってしまった。
「……っ! すみません!」
慌ててその人に頭を下げる。
「謝るぐらいなら、最初から走るなっ!」
至極まっとうな怒鳴り声が降ってくる。
恐る恐る顔を上げると、いかにも腕に自信がありそうなお兄さんがそのお友だちと一緒に、私を見下ろしていた。
「今ので怪我してたら、治療費出してくれんの?」
「あ、ええっと――」
まずい……と冷や汗が滲む。救いを求めるように私は視線を泳がせた。
それを『怯え』と受け取ったのだろう。お兄さんたちは凄んでいた顔に意地の悪い笑みを浮かべて、距離を詰めてくる。
「それは、ちゃんとしなきゃいけないですけど……、まずは怪我をしているかどうか調べるのが先かと……」
「ふーん。じゃあ、一緒に調べにいこうよ。責任感じてるなら、医務室、付き合ってくれるよな」
「ま、金じゃなくてあんたが『治療』してくれてもいいけど?」
幸か不幸か、私はこういう風に絡んでくる人が質の悪い人だと知っていて、だからこの状況は非常にまずかった。運が悪ければ、それこそ高額な治療費が必要になる。
なぜなら、学年が違う私ですら知っているぐらい慶ちゃんと芽生ちゃんはケンカに強くて、カズちゃんの件があって以来、昔よりもずっと私に対して過保護だからだ。
(慶ちゃんと芽生ちゃんに見つかる前に逃げないと……!)
「本当にごめんなさい! 急いでいるので!!」
もう一度深く頭を下げ、私は彼らの横を通り抜けようとした。
「おっと! 逃がさねぇぜ!」
けど、それを予想していたのかお兄さんの手がすっと伸びてきて、私の肩を強く掴んだ。
「いたっ……」
指が食い込んで、鈍い痛みが肩に広がっていく。
「本当にごめんなさい……。許し、て――」
「ゴメンですんだら、警察いらないだろ?」
「でも、危ない、から……」
「うんうん、危ないな。だから、もう二度とこんな危ない真似、しないよう、しっかり躾けてやるよ」
「ちが……。私じゃなくて――」
必死の訴えは、痛みでうまく言葉にならず、切れ切れになった。だから、ちゃんと伝わらなかったんだろう。お兄さんたちの顔が再び怖いものに変わる。
「なんだ? あんたじゃなくて俺たちが危ないとでも言うのかよ」
「なら、試しにぶっ飛ばしてみろっ!」
カッとなったお兄さんが、勢いよく腕を振り上げる。
(殴られる……!)
思わず身をすくめ、目を瞑る。
「………………」
けれど、くるはずの衝撃や痛みはやってこなかった。代わりに――。
「……うん?」
怪訝そうなお兄さんの声が聞こえる。
(まさか――!)
頭をよぎった想像に背筋が凍った。勇気を振り絞って目を開けると、お兄さんの手は誰かに掴まれていて、振り下ろすのを阻まれていた。
そして、お兄さんの手を掴んでる人は、人を殺せそうなぐらい鋭いお兄さんの視線を静かに受け止めている。
「オンナノコに、なにしてんの?」
穏やかな声。でも、穏やかすぎて逆に威圧感があった。
「誰だ、てめぇ?」
(……誰?)
私も、目をパチパチしながらその人を見たけれど、どこからどう見ても慶ちゃんでも芽生ちゃんでもなかった。
私たちよりも――絡んできたお兄さんたちよりも少し年上に見える。背が高くてがっしりとした身体をしているけれど、絡んできたお兄さんたちみたいに明らかに『ケンカ慣れしてます』って感じじゃない。
だからこそ、こんな不穏なやりとりに割って入ってくるのが不思議だった。
それは、お兄さんたちも感じているようで、いつでも距離を取れるよう警戒しながらその男の人を睨みつける。
「てめぇ、コイツの連れか?」
「いや、たまたま通りかかっただけ」
「なら、ほっとけ。てめぇには関係ねえだろ!」
「関係はないけどさ。楽しむための場所で、つまんない真似、すんのはナシだろ」
「はっ、ナイト気取りかよ。イキがってんじゃねぇ――!」
お兄さんはつかまれていない方の手を振り上げ、男の人を殴ろうとした。
その時――。
「――大和!」
別の声が私たちの間に割って入ってくる。
「……!?」
「あ――」
突然の声に私たちが一斉に振り向くと、そこには男の子と別のお兄さんがいた。男の子は私よりもちょっと下ぐらい。お兄さんは、芽生ちゃんや慶ちゃんと同年代みたいだった。
「何やってんの? もしかして、暴行されるとこ?」
男の子は大和と呼んだ男の人を見て、怪訝そうに顔をしかめる。
「……おおよそ間違ってないな」
「なんだ、てめぇら」
場違いなほど緊張感のないやりとりに、お兄さんたちも顔をしかめる。
「なら、抵抗しろって」
男の子と一緒に来たお兄さん――目の前のお兄さんたちとは違って人のよさそうなお兄さんがため息をつく。
「いや、無抵抗でいるつもりはなかったんだが、その前にお前たちが来たからさ」
「はいはい。言い訳はいいって」
男の子も、人のよさそうなお兄さんと同じような仕草でため息をつくとポケットからスマホを取りだして手際よく操作する。
「もしもし、警察ですか? 義兄がやばい人たちに絡まれてるんですけど――」
「お、おい……!」
響いてきた声に、悪いお兄さんたちが慌てる。
「チッ。面倒くせぇから、行こうぜ」
そんな風に捨て台詞を吐くと、私も大和と呼ばれた男の人も放り出して、そそくさと人混みの向こうに消えていった。
「バーカ。演技だっての。警察なんて面倒くさいもの、呼ぶはずないでしょ」
男の子がもう見えなくなった背中にベーッと舌を出す。
そして、スマホをまたポケットに突っ込み直すと、隣の人のよさそうなお兄さんと並んでこちらへとやってくる。
「大丈夫か?」
「ん。助かった。サンキュ」
よく見ると、助けてくれた男の人と、人のよさそうなお兄さんは、よく似ていた。
(……兄弟かな?)
「別に助けるつもりなんてなかったけど。こっちを面倒事に巻き込まないなら、大和なんてどこで殴られてようと倒れてようとかまわないから」
「深っ!」
憎まれ口を叩く男の子に、眉をつり上げて人のよさそうなお兄さんがげんこつをお見舞いする。
「イタいっ!」
「殴られたくなきゃ、言葉と態度に気をつけろ!」
「まあまあ、コイツなりに心配してくれてるんだからさ」
「心配なんてしてない」
「そうか? 警察に電話するフリした時、俺のこと兄って呼んでくれたじゃん」
「あれは! 『父親の元本妻の長男が暴行されてます』なんて言っても、あの馬鹿そうなヤツらに通じないと思っただけ。それに、『兄』とは言ってないから。『ギケイ』の方だから。響きは同じでも漢字にしたら『義』がついてるから」
「ハイハイ、わかったわかった」
「………………」
賑やかなやりとりに目が丸くなってしまう。よくはわからないけど、とりあえず複雑な関係らしいことはわかった。
と、彼が私を振り返る。
「ああ、うるさくして悪いな。大丈夫か」
「は、はい。助けてくれて、ありがとうございます」
「ん、どういたしまして。でも、気をつけろよ。人が多いと中にはあんな風に悪いヤツも混じってるからな」
そうにこやかに笑って、彼は私の頭をガシガシと撫でた。
「――兄貴。女の子にそれはないだろ」
「ああ、悪い――」
人のよさそうなお兄さんのツッコミに、彼が謝ろうとした時だった。
「テメェ、なにしてやがるッ!!」
耳慣れた怒鳴り声が響いてくる。
「慶――」
ハッと息を飲むよりも早く、私の前に影が現れたかと思うと、頭を撫でていた彼の姿が消えた。
視界を覆い隠しているのが慶ちゃんの背中だと気づいた瞬間、何かを――人を殴る鈍い音が響いてくる。
「……くっ」
「兄貴!」
「慶ちゃんっ!!」
慌てて慶ちゃんの背中から顔を出すと、慶ちゃんが彼に向けて拳を繰り出していた。
「……っ」
身体中から血の気が引く。
「――テメェ」
慶ちゃんは目線を彼に固定したまま、苛立った声を上げた。慶ちゃんの拳は身体にめり込んでいるのではなく、彼の右手で受け止められていた。多分、身体に届く寸前、手で受け止めたんだろう。
「いってぇなぁ……」
それでも、かなりの衝撃があったらしく、彼の顔はしかめられている。
「ちょっと! 義兄に何すんの? マジで警察に通報するよ」
「恩を仇で返される謂れなんて、ないんだけど?」
男の子と人のよさそうなお兄さんが彼の両隣に並んで慶ちゃんを睨む。
「……っ」
慶ちゃんの口が、ひゅうっと息を吐く音を聞いた。少しだけ冷静さが戻ってきたのかもしれない。
「慶ちゃん、違うの! その人は私を助けてくれたの!」
必死で叫ぶと、慶ちゃんの身体が軽く震える。
けど、慶ちゃんはまだ私を振り返らない。代わりに、また別の――よく知る声が割り込んでくる。
「――それ、本当?」
振り向くと、騒ぎを見守るように私たちを取り巻いてる人垣の中から芽生ちゃんが歩いてきた。その顔は険しい。
私は鋭い芽生ちゃんの視線を受け止め、ゆっくりとうなずいた。
芽生ちゃんは私の前まで歩いてくると、大きく息をついた。その大きな身体から力が抜けていくのがわかる。
「……だってさ、慶一」
少しだけ穏やかになった声で、芽生ちゃんが慶ちゃんの背中に声をかける。
「………………」
慶ちゃんの身体からも力が抜けていく。そして、慶ちゃんはぺこりと彼に頭を下げた。
「…………悪かった」
感情の窺えない声。一気に気持ちが爆発したから、一時的に心の中から何もかもが消えてしまったんだろう。
「いいって。ちょっとした誤解だ。お前の大事な子に何もなくてよかったよ」
彼はそう笑って、私にしたように下げられたままの慶ちゃんの頭をガシガシと撫でる。
「ガキ扱いすんなっ!!」
「はは、悪い! ちょうどいいとこに頭があったからさ」
慶ちゃんが顔を上げてわめく。慶ちゃんの様子がいつも通りに戻ったことにホッとする。
「でっかくなれよ、少年」
「……テメェがでかすぎるんだよ」
慶ちゃんの憎まれ口に目を細め、彼は「じゃあな」と手を振り、きびすを返す。その後を人のよさそうなお兄さんとむすっとした顔の男の子が続く。
「……それ、冷やさなくて大丈夫か?」
「ん。今のとこ平気。……多分、だけどな」
「大丈夫じゃないでしょ。ってかさ、下手に割って入らなきゃ、あの男ども、アイツらにボコられて丸く収まったんじゃないの?」
「それじゃ、間に合わなかったかもしれねぇだろ? ま、最終的にいい感じに着地したんだから結果オーライだ」
「兄貴の手のひらは犠牲になったけどな」
そんなことをわいわいと話しながら彼らの背中が小さくなっていく。そうやって彼らが去っていったのを合図に、この騒ぎも『終わった』と判断され、私たちを取り巻いていた人垣も消えていった。
あとには、いつも通りの遊園地に立ち尽くす慶ちゃんと芽生ちゃん、そして私がいる。
「………………」
まだ私に背を向けたままの慶ちゃんに声をかけようとするけど、うまく言葉が出てこない。
すると、入れ違うように慶ちゃんの声が響いてきた。
「――オマエ、さ」
うつむきかけた顔を上げ慶ちゃんを見ると、慶ちゃんはくるりとこちらを振り返り、それからずかっと距離を詰めて、右手で私のほっぺたをぎゅーっとつねった。
「なに、迷子になってんだよ! いくつになったと思ってるんだ!」
「ふ、ふみまへん……」
「ダーメ。許さねぇ」
慶ちゃんは空いてる左手でも私の右頬をぎゅっとつねりあげる。
「ひ、ひたひっ!」
「痛くなかったらオシオキになんねーだろうが」
「慶一、その辺にしておけ」
私たちを見守ってた芽生ちゃんが息をつき、慶ちゃんの隣に並ぶ。
「……芽生はお優しいこったな」
「つねってたら、しゃべれないだろ」
芽生ちゃんは私のほっぺたをつねってる慶ちゃんの手を優しく外すと、私を見下ろしてくる。
「さっきの人はお前を『助けてくれた』って言ってたよな? ……何があったんだ?」
「……!」
芽生ちゃんはまっすぐ私の目を覗き込んでくる。痛いぐらい真剣なまなざしは、誤魔化しや言い逃れを許さないと語っていた。
「――その、芽生ちゃんと慶ちゃんを探して走ってたら、人に当たっちゃって……」
「………………」
「その人が怒ったから、今の人たちが助けてくれて……」
「ぶつかったのを口実に絡まれたんだろうが。ただ怒っただけなら、そこで終わりだ。それ以上の何かがあったから、オマエも助けられたと思ったんだろうが」
慶ちゃんが、頭を抱えながらため息をつく。
「……ごめんなさい。でも、私が悪かったの。だから――」
「オマエが悪くないとは言ってねぇ」
慶ちゃんはそうきっぱり断言すると、私の手をギュッと握る。
「だから、今日はこのまま、手、繋がれとけ」
「……!」
「ああ、それはいい考えだ。手を繋いでたら、もう勝手にどっか行ったり絡まれたりできないもんな」
芽生ちゃんもにっこり笑って、慶ちゃんが繋いでるのとは反対側の手を取る。
「……子供みたいで恥ずかしいよ」
「ガキみたいなこと、したの、オマエだろうが」
「……そうだけど。いなくなったのは、慶ちゃんや芽生ちゃんの方なんだけどな」
「それ、よく聞く迷子の言い訳だ」
「………………」
もう反論できる余地は何もなかった。私は諦めて、慶ちゃんと芽生ちゃんに手を引かれて歩き出す。
まるでちっちゃい子のようで恥ずかしかったけど、同じぐらい慶ちゃんと芽生ちゃんに申し訳なかった。
(慶ちゃんと芽生ちゃんの手、冷たい……)
慶ちゃんに至っては、まだ気持ちが落ち着いていないのか軽く震えてもいる。
それだけ、心配をかけたのだろう。
カズちゃんを失ってから、ふたりは――特に半身を失った慶ちゃんは、失うことを恐れてる。
もうなくしたくないと願うのは私も同じで、残っている3人の中で一番弱い私に過保護になるのも理解できた。
手を引き、手を引かれながら、多分、私たちは同じことを考えていて、同じ気持ちでいて、でも、誰も『それ』に触れられない。
ただ、遠巻きに眺めるように、過ぎ去った時間に想いを馳せるように、何度も思い出のこの遊園地に足を運ぶだけ。
でも、今日はちょっと様子が違った。
「…………しくった」
前を向いたまま、慶ちゃんがぼそっと呟く。
「何を?」
「……警察、呼ばれかけた」
「今さらだろ?」
慶ちゃんの言葉に芽生ちゃんが苦笑する。
「そう……だけどさ。でも、さすがにあちこちで暴れて悪い意味で名前、知られたくないし」
「将来のために?」
「そう。入る時、前科があると落とされるって噂だし」
「逆を返せば、前科がつかなきゃセーフだろ?」
「……オマエ、時々怖いこと言うよな」
芽生ちゃんを振り返り、慶ちゃんが息をつく。
「……大丈夫。お前はちゃんと警察官になれるよ。一慶(かずちか)のためにも」
「……ん。どうも」
優しく笑う芽生ちゃんからふいっと顔を背け、慶ちゃんが呟く。
それから、慶ちゃんは黙り込んでしまって、芽生ちゃんも何も言わなかった。
しばらく私たちの間には沈黙が流れたけれど、嫌な沈黙じゃなかった。
さらっと、カズちゃんの名前が私たちの間で話題に上ったのが嬉しい。
(あんなことがあった後なのに……)
普段は、つらくて悲しくて誰も触れられなくて。
でも、ちゃんと大事に想ってて。
痛いけど、ちゃんと飲み込んで前に進もうとしてて。
こんな風に昔と同じような感じですんなり私たちの間に溶け込んだ。
その『なんでもない感』に泣きたくなる。
「…………なあ」
目を伏せながら涙を堪えていると、不意に慶ちゃんが声を上げた。いつもと同じ調子で。
ハッと顔を上げると、慶ちゃんは言葉を続ける。
「次、何乗るんだっけ?」
「――ジェットコースターで、まとまっただろ?」
飄々と答える芽生ちゃんに、慶ちゃんが「ゲッ」と顔をしかめる。
「……マジで?」
「無理、しなくていいよ? ほら、あそこのコーヒーカップも楽しそうだし」
「無理なんかじゃねぇよ!」
フォローしようと口を開くと、弾かれたように慶ちゃんがこっちを振り返る。
「昔、ちょっと苦手だっただけだ! しかも、怖いとかじゃなくて、『苦手』だっただけ! あのふわっと浮く感覚、気持ち悪いだろ」
「乗りたくないって、かなり抵抗されたぞ?」
「それはオマエやカズが面白がって強く手、引っ張るからだろうが!」
「ふーん、じゃあ、今は平気だと?」
「あったり前だ。ハンズアップで乗ってやる!」
慶ちゃんはフンッと意気込んで、私を引っ張るように率先してジェットコースターがある方向へと向かう。
芽生ちゃんはくすりと笑って私に目配せすると、先に進もうとする慶ちゃんの背中に声をかける。
「慶一、急がなくてもジェットコースターは逃げないぞ」
「知ってる。けど、どうせなら先頭、陣取りたいだろ。見てろよ」
私は昔の慶ちゃんのように、芽生ちゃんと慶ちゃんに引っ張られながら、後をついていく。「慶ちゃん、昔はこんな気持ちだったのかなー」なんて思いながら。
「……あれ?」
と、視線を感じ、私は後ろを振り返った。そして息を飲む。
そこには『彼』がいた。あの時と同じ幼い姿のまま。
「ん? どうした?」
慶ちゃんが足を止め、私を振り返る。
「今、そこに――」
私は慶ちゃんに説明しようと再び後ろを見て、そして、誰もいない空間に息を飲んだ。
「何かあった?」
芽生ちゃんは2、3歩戻って、私が見ていたもの確かめようとしたけれど、なにも見つけられず、困ったように肩をすくめた。
「…………ううん。なんでもない」
少しだけ迷ってから、私は首を振った。見間違いだったのかもしれない。それに、今、口にするべきことじゃない気もする。
(きっと、「頑張れって親指立ててたよ」って教えたら、慶ちゃん拗ねるだろうし……)
「……オマエ、なーんか、悪いコト、考えてるだろ」
「か、考えてないよ!」
私は慌てて首を振って、誤魔化すように足早に歩き出した。
「わ! ちょ、ちょっと……!」
今度は私に引っ張られる形になった芽生ちゃんが慌てる。
「……ったく、わかりやすいんだっての」
慶ちゃんもため息をつきながら引っ張られてくれる。
2人の声に気持ちをくすぐられながら、私は空を見上げた。

今日の空は、切ないぐらい綺麗に晴れ渡っていた――。

執筆:卯木悠里

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