Stellar Calendar

ポケットからタバコの箱を取りだし、封を開ける。
昔、知り合いに押しつけられた銘柄だが、デザインはリニューアルされているのであの時とはちょっとパッケージが違う。
(……味は、よくわからないな)
そう思いながら一本取りだし、口に咥えてライターを探す。
「……あれ?」
ポケットをあさって、カバンをあさって、そして、例のノートがないことに気づいた。
「……あ!」
思わず大口を開けて、咥えていたタバコがポロリと落ちる。けど、それどころじゃなかった。
大和の店に忘れてきた……!)
血の気が引くのがわかる。
俺は足下に転がるタバコを踏みつけて、あいつの店――『サンライズ』へと大慌てでUターンした。

ドアベルを激しく鳴らして店内に飛び込む。
さっきまで座っていた席に目を向けると、ここの店員である彼女がテーブルの傍に立ち尽くしている。その手に持つものに焦点が合った途端、血の気が引いた。
ドアベルの音に振り向いた彼女は俺を見て目を輝かせながら駆け寄ってきた。……手には俺の忘れたノートを握りしめながら。
そして、ノートに描かれている漫画は俺が描いたのかと尋ねてくる。
「……そう、ですけど。漫画というか、ただのネームですが」
向けられる視線の圧がすごくて、目をそらしながら答える。すると、耳にすごいと叫ぶ声が飛び込んできた。
「……え?」
思わず視線を戻すと、彼女は身を乗り出して、面白かったと口早に感想を並べ立ててくる。
「………………」
立て板に水のようって表現を実感しながら呆然と見下ろしていると、我に返ったのか、彼女はハッと息を飲んだ。
そして、頭を下げ、勝手に読んだ事を詫びる。
「……いえ。忘れた僕が悪いので」
彼女の手にしっかり握られたままのノートを抜き取って、俺はきびすを返す。
「じゃあ、お邪魔しまし――」
そのまま去ろうとして、ぐいっと腕を引かれた。
「……!?」
振り返ると、彼女が俺の腕を掴んでいて、またこっちに身を寄せて俺の顔を至近距離で覗き込んでくる。
プロの漫画家かと馬鹿な問いを投げかけられたので、首を振った。
「いえ。手慰みに描いてるだけなので」
すると、彼女の目が大きく見開かれる。面白いのにもったいないと、心底驚愕していた。
「……どうも」
戸惑いながらも、頭を下げる。
彼女は俺にどこがどうよかったかの感想を伝えながら、たくさんの人に読んでもらうべきだと訴えてきた。
「……ありがとうございます。頑張ります」
どこまで本気かわからないが、とりあえず社会人として対応しておこうと、仕事でするように俺はもう一度頭を下げた。

翌日。
いつものように『サンライズ』で腐れ縁である大和の売り上げに貢献しながら、手持ち無沙汰でタバコの箱でテーブルを叩く。
一服したくても、灰皿が設置してあるのは外だし席を立つのは面倒くさい。携帯灰皿を取り出そうものなら、店長の大和からもいい笑顔で苦情が飛んできそうだ。
かと言って、いつものようにカバンからノートを取りだして開く気にはなれない。
(……別に、昨日の一件なんて、どうってことない――はずなのに)
なんてモヤモヤ考えていると、不意に視界が陰った。
「……?」
顔を上げると、今日は姿を見かけなかった彼女が俺を覗き込んでいた。
「……あ。どうも」
動揺と緊張を鉄面皮の営業モードの下に隠して、軽く頭を下げる。
すると、彼女はテーブルにドンと手をついて、また俺に顔を寄せてくる。
(だから、近いって……!)
視界の端でカップの中の珈琲がこぼれそうなぐらい揺れるのを危ないなと見るともなく見つめながら、絡み合いそうな吐息から意識を逸らす。
しかし、信じられない言葉が飛び込んできて、俺は再び彼女を振り返った。
「は……?」
目を丸くする俺の向かいの席に座り、彼女は自作の資料を取り出しながら、どうすれば俺の漫画をたくさんの人に読んでもらえるかのプレゼンをし始める。
「あー……ええっと……。俺――いや、僕、単なる堅実なる税理士なんですけど」
その熱量に思わずぽろっと素が出て、慌てて対外的な顔を装い直す。
「仕事、忙しい時はあんまり漫画に時間、割けないですし……。一応、持ち込みなんかもしてるんですが、編集部の反応もイマイチですし……」
断りの文句のつもりだったのだが、彼女の目は輝いた。そして、またどんとテーブルに手をついて、持ち込みはしているんだと、明後日な方向に食いつきつつ、身を寄せてくる。
「……まあ。『一応』ですけど。ってか、さっきから近いです」
俺の弱々しい抗議を無視して、彼女はぐっと拳を握る。
ノウハウがあるなら、イベントに出てみるコースがおすすめだと。
「……は?」
一次創作のイベントには、編集部も出張でやってくる。持ち込みと、ファンへの売り込みができるから一石二鳥。しかも、『完成した作品』があるのは、大きなアドバンテージだとかなんだとか。
そして、直近のイベントに間に合うよう、自分がしっかりサポートすると意気込む。
気持ちと共に顔も前のめりになって、距離がさらに縮まった。何らかの拍子で彼女がバランスを崩したら、鼻の頭と鼻の頭がぶつかりそうだ。
「あの……距離感、バグってるって言われたこと、ありません?」
俺は吐息が絡み合わないよう、口の中だけでため息をつく。この熱量から逃げきれる気はしなかった。

4ヶ月後。
俺は彼女と並んでイベント会場にいた。
テーブルの上にはなんとか間に合った同人誌が一山、置かれている。
(すごい……本当に間に合ったよ……)
正直、何度も無理だと思ったが、彼女のサポートは手厚かったし、気持ちも非常に熱かった。
これはこれでひとつの努力の結果なのでちょっとした達成感がある。
なんとも言えない感情を持て余していると、隣で彼女が店番をしているので、出張編集部に行ってきてくださいと笑った。
「……どうも」
いつものように頭を下げて、お礼を言う。でも、必要以上に深く顔を伏せたのは、自然と緩む口元を隠すため――だったかもしれない。

イベントが終わり、撤収作業をしながら、俺は今日の余韻に浸っていた。
正直、本を手に取ってもらえることは稀で、頒布できたのはほんの数冊。それでも、誰かに作品を手に取ってもらえた嬉しさは半端なかった。
ただ、出張編集部での評価も芳しくはなかった。
光るものはあるが画力がちょっと……といった、体の良い断り文句をもらって帰ってきた。
(でも、出てみてよかったな……)
いい思い出になったなんて浸りながら、備品を段ボールに詰めていると、隣の彼女がぼんやり立ち尽くしているのに気づいた。
(売れなかったし、評価散々だったし、さすがにショックだったか)
なら、厚意のお礼にフォローしておくべきだろう。
「あー、その……あんま、気にしないでいいですよ」
立ち上がり、落ち込んでいるであろう彼女に声をかける。と、その手がスマホを忙しく操作していることに気づいた。
「……ん?」
見ると、次回開催されるイベントのページが表示されていて、申し込み手続きをしているところだった。
「ちょ……!?」
さすがに慌てて、みっともない声が漏れた。
その声に弾かれたように彼女が顔を上げる。その面持ちはショックで沈むどころか、やる気に満ちていた。
今日は悔しかったと彼女は強いまなざしで俺に告げる。
俺の作品を手に取ってもらえなかった。魅力が伝わりきらなかった。次はこの教訓を活かしてみせると、さっさと申し込みフォームの送信ボタンを押し、そして今度はSNSのアカウントの開設手続きをし始める。
おそらく、俺の漫画をPRするためのアカウントを作るんだろう。
「……暇なんですか?」
呆れを通り越して無の境地で尋ねると、暇どころか俺の手伝いでもっと忙しくなると返ってくる。
(……いや、それ、暇だろ)
心の中で突っ込みつつも、呆れとは違う気持ちが心の中に生まれる。
(俺の作品が、こうして彼女を突き動かしている……)
彼女はいつも自分には作品なんて作れないから俺のことをすごいと言う。
でも、俺にはこうして俺を突き動かす彼女の方がずっとすごく思えた。

それから俺は、何度も彼女に引っ張られる形でイベントに参加した。
編集部にも持ち込みをして、少しずつ手応えも得た。
彼女は彼女で、SNSなどを活用して作品をアピールし、強引な情熱で俺の尻を叩いて作品を描かせた。
そのおかげか俺たちのスペースの前で足を止め、本を手に取ってくれる人が増えた。
正直、本業と平行して漫画を描くのはすごく大変で苦しかったが、……それと同じぐらいすごく楽しくなっていった。
やがて、俺に担当がついた頃、俺は死ぬまでしがみついているんだろうなと思っていた堅実なる税理士を辞めた。

「……ふぅ」
シャーペンを放り出し、椅子の背もたれにのしかかる。
頭の中でこねくり回しているネタの方向性がわからなくなってしまった。
(気分転換、気分転換……)
箱からタバコを一本取りだし咥えて、スウェットのポケットからライターを漁る。
ずいぶんとだらしのない格好だが、とても着心地がいい。
サラリーマンを辞めた時、思い切ってファッションも変えてみた。
自分には似合わないと思っていたちょっとすれた感じの服装は、意外にうまく着こなせているようだとこっそり自画自賛している。
と、机に放り出していたスマホが着信を告げる。
「はいはーい」
慌てて服から目を離し、スマホを手に取る。ディスプレイには俺の担当――伊達さんの名前が表示されていた。
「もしもし、佐土原です」
電話に出ると、通話口の向こうから、ちょっと興奮した伊達さんの声が響いてくる。
「え……?」
俺は思わず椅子を蹴って立ち上がった。

玄関に放り出してあったサンダルをつっかけて、家を飛び出し大和の店――『サンライズ』に飛び込む。
激しく鳴ったドアベルの音に彼女が振り向く。俺は転びそうになりながらその前へと走り寄った。
「デビュー! 決まった! 今、伊達さんから電話があって――」
全部、伝える前にぎゅっと強く抱きしめられた。
「なっ!?」
付き合いも長くなってきたから、彼女の言動にも慣れてきたと思っていたけど、さすがに素っ頓狂な声が上がった。
(しまった。もっと、冷静に伝えるべきだったか……)
なんて、後悔しながらも、抱きしめられるほど喜んでもらえるのも悪くないなって思っている自分もいる。
ただ、手持ち無沙汰の両手で彼女を抱きしめ返すか……それが、目下の悩みだった。

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