Stellar Calendar

「お待たせしました」
馴染みのバーテンダーがオレの前にカタンと置いたのは、湯気の立った湯飲み茶碗だった。
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が漏れたオレを、誰も責められないだろう。
小洒落たバーで。
ロックで飲んでたうまい酒のおかわりを頼んで。
目の前に置かれたのがこの湯飲みだ。
しかも、ほうじ茶の香ばしい香りが漂ってきて、微妙に飲んでみたいと思わせてくるところがさらに腹立たしい。
「飲み過ぎですよ。今日、強いお酒、何杯いったと思ってるんです?」
「いいだろ。面倒くせぇ仕事がようやく終わったんだ」
しかめっ面で睨みつけても、バーテンダーは動じることはない。どうやら、そんじょそこらの凶悪犯より、よっぽど肝が据わっているか、腕に自信があるらしい。
(……まあ、顔馴染みってのも大きいかもしれねぇけど)
ちなみに、名前は凛太郎。最近知った。
この店にはうまい酒しか求めてなかったが、凛太郎の接客が心地よくて、アルコールが気持ちと口を軽くすることもあって、オレたちはぽつりぽつりと他愛のない話をするようになった。
仕事の愚痴とか、休日の過ごし方とか、断片的な身の上話とか。
店員と客ではあるが、ちょっとした身内判定。それは、あっちも同じ。だから、しれっと注文外かつ違和感満載の湯飲み茶碗なんて出したのだろう。
とりあえず、喉は渇いていたので、湯飲みを手に取り、ほうじ茶をすする。
(……うめぇ)
疲れ切った身体と脳みそにあったかく沁み渡っていく。
客の身体が求めているものを出すという点では、なるほど、コイツは優秀なバーテンダーなんだろう。
(……つーか、なんでこんなバーに湯飲み茶碗なんてあるんだ?)
もう一口、ほうじ茶を飲みながら考えていると、凛太郎の落ち着いた声が降ってくる。
「大変な仕事がようやく終わったということは、今まで徹夜ですか?」
「ん。ここ数日、まともに寝れてねぇ」
「……それで、お酒を飲みにきたんですか。身体壊しますよ」
「これぐらいで身体壊すほど、やわじゃねぇよ」
「そうやって慢心する人間ほど、足下を掬われるものです」
「うるせぇな。芽生みたいなこと、言うな。だから、アイツの店を避けたってのに」
「幼馴染みだという芽生さんに注意される自覚があるなら、そろそろ切り上げたらどうです?」
「オマエな。客を追い返してたら、商売あがったりだぞ?」
「心配しているんですよ。どうやら、俺は思っていた以上に、慶一さんの事が好きみたいなので」
いけしゃあしゃあと言ってのける凛太郎の顔に嘘の色は見えない。
「…………ちくしょう」
酒の代わりに、手の中の湯飲みを一気にあおる。熱いほうじ茶が喉を焼いてヒリヒリと鋭い痛みが残った。
「おかわり、いりますか?」
「酒を出さねぇなら、いらねぇ」
お節介のバーテンダーにそう答えて、スマホを取りだし連絡先一覧から、たまたま指が当たった欄をタップして『すぐ来い』というメッセージと、待ち合わせ場所を送る。
「……慶一さんって、絶対この店で女性、見繕いませんよね?」
オレの行動を熟知している凛太郎がため息をつく。
「やろうとしたところでオマエが止めるだろ? それに、こう見えて、オレ、この店気に入ってんだ」
スマホをポケットに押し込み、ベーッと舌を出してみせる。
芽生やアイツと顔を合わせたくない時、ひとりでのんびり飲める店。
誰も自分を知らない場所に行きたくて、ふらりと入ったこのバーで、別の馴染みができたのは想定外だが、だからこそ、居心地いいここの空気を壊したくはない。
凛太郎はオレの言葉に目を瞬かせ、それから小さく呟いた。
「……なるほど」
どうやら、『気に入った』の一言だけでオレの意図を正確にくみ取ってくれたらしい。
(オンナ遊びに口出ししてこねぇことといい、コイツも相当遊んでんな?)
同類の匂いを感じ取りつつ、オレは席を立ち上がる。
「んじゃ、凛ちゃん。会計、よろしく」

小洒落たバー『Night Bloom』を出て、ラブホが建ち並ぶ筋に向かう。
身体を撫でる夜風がやけに気持ちよくて、自分が思っている以上にアルコールが回っているのだと知った。
(……ま、酒が回っててもヤれれば問題ない)
指定した路地の角に立ち、夜空を見上げる。
酒で誤魔化せないなら、オンナを抱いてスッキリするだけだ。
(……まったく、まいるよな)
普段は奥底に沈めている『何か』は、こっちが疲れたり弱ったりすると鎌首をもたげて動き始める。
オレは神に祈りを捧げる宮司よろしく、酒だのセックスだので『何か』を鎮めて、日常に戻る儀式をしなきゃならない。
(こう見えて、オレは小さい人間だからな)
小さなオレが安心できる狭い安全地帯。
そんな大切な場所を、心の奥底に隠している余計な『何か』で壊さないように。
星を見上げたまま目を閉じ、冷たい夜の空気を大きく吸って、火照った身体と頭を冷やす。
と、オレを呼ぶ声がした。今、ここで、絶対に聞こえちゃいけない声。
「……!」
身体がびくりと震える。
固まる身体を軋ませて、無理矢理声の主を見ると、そこには予想通りのオンナがいた。
「オマエ、なんで――」
かすれた声で尋ねようとして、ハッと思い当たる。
急いでスマホを取りだし、メッセージの送信履歴を確認すると、さっきのメッセージの宛先に想定外かつ想定内の名前を見つけた。
目の前のオンナの名前なので想定内。この名前にヤるためのメッセージを送ったのは完全に想定外だ。
(……くそっ。マジで酔っ払ってんな、オレ)
そりゃ、凛太郎も店の雰囲気ぶち壊してでも、ほうじ茶を出すわけだ。
言葉を失うオレに、アイツが駆け寄ってくる。その口が、文句だの心配だのを紡ぐ前に慌てて背を向ける。
「わりぃ、呼び出す相手、間違った。帰れ」
できるだけ端的に、突き放す。
背中からは案の定、できるわけないといった文句が飛んでくる。
「うるせぇ! こっちは長丁場で溜まってんだ!」
怒鳴り声を上げると、ひるんだように文句が止まる。
たたみかけるように振り向いて、アイツに顔を寄せた。
「それとも何か? オマエが相手、してくれんの?」
鼻先が触れ合うぐらいの距離。
酒臭い息がアイツの吐息に絡まって、目の前の顔がしかめられる。
何か言葉を紡ごうとした口は、数回パクパクと声にならない声を紡いで、それから、再び強く引き結ばれた。
真っ赤に顔を染めたアイツは、覚悟を決めたようにオレを見る。そして、ゆっくりとうなずいた。
いいよ――と。
途端、カッと頭に血が上る。
怒鳴りつけたい気持ちと、強く抱きしめたい気持ち。
それらを口の中にとどめ、唾と一緒にゴクリと飲み込む。
あふれ出そうになった声やら想いやらが腹の中に収まったのを確かめてから、わざと大きく鼻を鳴らした。
「バーカ! オマエに同情されるほど、落ちぶれちゃいねぇよ」
指でデコを弾いて、身体を起こすことで距離を取る。
赤くなったデコに手を当てながら、アイツがオレを見つめる。その目には、何が原因なのか、うっすらと涙が滲んでいた。
「それに、オンナはみーんな大好きだけど、オマエだけはオレの守備範囲外だ」
悲しそうな、悔しそうな面持ちで、どうしてとか理由を尋ねられるよりも早く、言葉を重ねる。
「相手するにはお子様で色気、足りねぇし」
……嘘だ。他のオンナ、抱かないと兄貴面できねぇほどに、『女』として見てた。
芽生に殴られたくねぇし」
……嘘だ。『幼馴染み』という関係を誰よりも大事にしているのは芽生じゃねぇ。
「心配されるほど、酔っ払ってねぇし」
……嘘だ。無意識でオマエの名前、選ぶぐらいには、理性、ぶっ飛んでる。
「夜遅く、こんな場所、うろうろすんな。襲われるぞ」
……オレにな。
「………………」
オレとアイツはしばらく無言でにらみ合う。
膠着状態を破ったのは、アイツのため息だった。
わかった――とオレの言い分を飲み込んで、アイツは別の要求を突きつけてきた。
曰く、家まで送れと。
「……オレ、今から、オンナ、呼び出す予定なんだけど?」
オンナなら自分が来たと、生意気な反論が返ってくる。しかも、送るつもりがないなら、代わりに芽生に送ってもらうから連絡しろなんて脅迫と共に。
「……わかったよ。送る」
白旗をあげると、とてもいい笑顔が向けられた。その顔で胸がくすぐったくなる自分が悔しい。
「ったく。オレの幼馴染みはどいつもコイツも面倒なヤツばっかりだ」
並んで歩き始めながら、隣でひょこひょこと揺れる頭をぐしゃっと撫でる。

昔から、どうでもいいオンナは抱けるのに、どうでもよくないオンナだけが、どうしても抱けない。

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