Stellar Calendar

俺が好きな人は、とてもひどい人だった。
我儘で気まぐれで、軽いし、他人の気持ちなんかお構いなしに好き勝手に振る舞って心に深い傷つけ、その傷口に爪を立てて笑う。
なのに、俺は『あの人』に惹かれる気持ちを止めることができない。
何度も振り回されて、飽きたら捨てられて。
なのに、また気まぐれに拾いあげては、刹那的な快楽と自己嫌悪感を与えていく。
それの繰り返し。
彼女と肌を重ねている時、俺はただ、『あの人』に快楽を与えるために動くおもちゃに過ぎなかった。
『あの人』が求める快感を、与えるためだけのとても都合のいい道具。
それでも、好きだった。
すごく惨めなのに、一秒でも長く繋がっていたかったし、『あの人』を独り占めしたかった。
なのに、『あの人』は俺に飽きると他の男の元へ行って、俺のことなんて忘れてしまう。
次にいつ連絡がくるのかわからないまま、ただひたすら待ち続ける。
憎いのに愛おしくて、愛おしいのに憎くてたまらなかった。
心はぼろぼろで、何をしていても楽しくなくて、作り笑顔をべったり張り付けて呼吸をするだけの日々。
どうして、人は恋する人を自分で選べないのだろう。

24歳・12月――
引き戸を開けると、鋭く冷たい空気が俺を包み込む。
静かな静かな夜。
さっきまで俺を包んでいた打ち上げの空気とはまるで違う。
静かすぎて耳が痛い。
でも、少しホッとした。
ライブの成功を喜ぶ玲央の笑顔を微笑ましく見ていた気持ちも本当だけど。
店の扉を閉め、少し足を動かして道路の方に出ると、ぽっかり頭上が開けて、空に浮かぶ月が見えた。
「………………」
辺りに人の気配がないことを確認して、ゆっくりとポケットからスマホを取り出す。
ずっとポケットの中で存在を主張していたのに、いざ手に取ると、腕が鉛のように重い。
見たい。見たくない。
ふたつの感情が俺の中で揺れる。
意識しなくても指はいつもの動作を覚えていて、勝手にスマホを操作し、『あの人』とのやりとり画面を開く。
「………………」
やはり、新着メッセージはない。通知がなかったんだから当たり前だ。
それでも。どうしても。
画面を見る時まで、期待してしまう。
『あの人』からの連絡が来るんじゃないかと。
今、この瞬間ですら。
ふと、拒むように閉めた扉が開く音がした。
「……っ!」
びくりと震えて振り返る。すると、扉の隙間から彼女が心配げにこちらを見ていた。
「……君か」
彼女は、隙間から夜に忍び込んできてそっと扉を閉める。世界から俺たちを隠すように。
そして、こちらへと歩み寄ると、うなだれる俺を見上げた。
大丈夫……かと。
「……ごめん。ちょっとダメみたい」
隔離された闇の中、俺は彼女にしか言えない本音を漏らす。
俺の醜い恋を彼女だけが知っている。うまく隠し通せていると思っていたのに、彼女だけが気づいていた。

22歳・夏――
合宿に来たというのに、俺の心は沈んでいた。
夏を迎えた空は、どんどん高くなっていて、夜は星が綺麗に輝いていた。
昼間はしゃいでいた玲央が、電池が切れたように布団に突っ伏した後、俺はそっと外に出て頭上に輝く星々を見るともなく眺める。
ポケットに突っ込んだスマホを握りしめながら。
何をしている時もずっと意識していたのに、スマホが着信を告げることはなかった。
(もう1週間以上、『あの人』から連絡がない……)
さすがに心が折れそうだった。
好きなのは俺ばかり……それはとっくに知っている。
それでもどうしても、俺は『あの人』が好きで。
時々、俺の気持ちに応えるようなキスや抱擁をくれるから、どうしても『あの人』を諦めきれない。
視界の先で瞬く星が滲みかけた時、背中から声がかかった。
振り向くと、彼女がいた。
彼女は同じ大学の後輩で、軽音サークルのサポートメンバーだった。
サポートと言っても、俺たちの音楽に忌憚ない意見をくれて、それに玲央が「こなくそ」と応えて、結果、より満足のいく音色が奏でられる。俺たちにとってなくてはならない存在だった。
特に、俺たちの音楽が好きだという笑顔が好きだった。
多分、玲央に連れられてやってきた時からずっと。
優しくて素直で、人間としていいなと思っていた。
彼女みたいな人になれたらどんなにいいだろう――そう眩しく見ていた。
(あの時、俺はもう『あの人』の身勝手さに振り回されていたから……)
「どうしたの? 眠れない?」
声をかけると、彼女は困ったように笑った。
眠れないのは俺だろうと彼女は俺の隣へとやってくる。
「え……?」
びっくりする俺を見上げ、彼女は優しく笑う。
吐き出したいことがあるなら聞くよ――と。
「………………」
俺は、どうしようかと迷って――結局、左隣にいる彼女の温もりに甘えるように口を開いた。
「俺が好きな人は、とてもひどい人で……」
吐きだしてしまうと、長年ため込んでいた想いがどんどんこぼれ落ちてきた。
それは、ひどく醜くて、聞くに堪えないものだと自分でも思う。
でも、彼女は静かに受け止めてくれた。
一通り吐き出すと、ようやく理性が戻ってくる。
「――変な話を聞かせてごめん」
謝る俺に彼女はゆっくり首を振る。
そして、小さくまた笑った。
自分も失恋したからわかる――と。
寂しそうな、悲しそうな顔。
弱々しい笑みを浮かべる顔に、涙が流れた……気がした。

あの夏の夜から、彼女は何かと俺を気遣ってくれるようになった。
俺は相変わらず、『あの人』に振り回されていて、もうやめよう、こんな気持ちになるくらいなら俺から離れよう……そう思うのに、連絡がくると傷つくのがわかっていても会いに行っていた。
そんな不毛な過ちを、俺はもう何年も繰り返していた。
だから、俺はいつもの愚痴をいつものように彼女に漏らす。
「今度はどこの男の元に行っているんだろう」
彼女にしか、見せられない暗部。
醜くて気持ち悪い。でも、彼女はいつも静かに受け止めてくれる。
なのに、今日は少し様子が違った。
彼女はいつもとは違う顔で俺を見る。
怒っているような顔。
いつも穏やかに笑っている彼女なのに珍しいと思っていると、彼女は俺の頬に手を当て、自分ならこんな風に悲しませないと強い口調で言った。
幸せにするよ。泣かせないよ。だから、『あの人』じゃなくて自分と付き合ってほしいと。
「………………」
俺は戸惑い、答えに迷って……それから、小さくうなずいた。
「……うん。ありがとう」
俺は、幸せになりたかった。報われない恋に傷つくのはもう疲れてしまったから。
誰でもいいから助けてほしかった。
だから――。
「……こちらこそお願い。俺と付き合って、ください」
なぜ、彼女がそんなことを口にしたのかも深く考えず、楽な方に逃げた。

そうして、俺たちは、『彼氏』と『彼女』になった。
彼女の気持ちに気づいたのはそれから半月後だった――。

恋人同士になってから、何度目かのデート。
並んで歩きながら、彼女は幸せそうに笑っている。
「…………」
その笑顔が好きだな……と改めて思う。
一緒にいる間は、『あの人』の事を考えずにすんだ。だから、彼女とデートするのは好きだった。
ふと、彼女が俺の視線に気づき、どうしたのかとこちらを見上げる。
「あ……」
知らないうちに凝視していた事実が恥ずかしくて、俺は彼女から目を背ける。
「その……やけにいい顔して笑うなと思って」
言い訳を探しつつ口を開くと、彼女の首がかしげられる。
意図がうまく伝わらないみたいなので、俺は彼女を振り返り、言葉を重ねた。
「ほら、失恋したって言っていたよね? そんな素振り、見えないから、傷、癒えたのかなと思って」
俺の言い訳に、彼女は、ああと手を打って、それから満面の笑みを浮かべて俺を見た。
そして、びっくりするようなことを口にする。
「え……?」
彼女の失恋した相手を教えてもらって、俺は息を飲んだ。
「俺……?」
確認するように、自分を指さすと、彼女は間違ってないと笑いながらうなずく。
俺の好きな人の話を聞いたから、あの夜、自分は失恋したのだ……と。
「そ、そっか……」
なんだか心がむずむずして、俺は再び彼女から目をそらす。頬がほんのりと熱を帯びた。
――と、その時。
「あ――」
人混みに『あの人』の後ろ姿を見て、俺は声を上げる。
突然の声に驚いたのか、彼女からどうしたのかと心配そうに尋ねられる。
「……ううん。なんでもない」
俺は首を振って話を終わらせた。実際、『あの人』かと思った後ろ姿はまったく違う女性のものだったから。
彼女はわかったと言って、それ以上、追求はしてこなかった。
……してこなかったけど、表情は曇っていて、さっきのような笑顔はもう見せてくれなかった。

彼女と付き合って、季節が一つ巡り、冷たい空気の中にも春の香りが漂い始めた。
彼女と何度目かのデートを終えて、家まで送りながら、俺は季節の移り変わりを感じる。
「………………」
隣を歩く彼女を横目で伺うと、沈んだ顔で歩いていた。時折人の気配がするとハッと息を飲んで振り返る。
……今まで、俺がそんな風に、行き交う人に『あの人』の面影を見続けたから。
(一緒にいて、幸せだと思うのに……)
なのに、街角で、通りの向かい側で、駅のホームの先で、俺は『あの人』によく似た影を見いだし、立ち止まってしまう。
幸せから引き戻されて、『あの人』を確かめてしまう。
そんな、俺の悪癖が彼女をボロボロにしていた。
自分を見てくれない人と一緒にいることが、どれだけ苦しいことなのか俺が一番わかっていたはずなのに……。
笑わない彼女に心を痛めているうちに、いつしか彼女の家の前まで来ていた。
俺が足を止め、彼女も足を止める。
送ってくれてありがとうと見上げてくる彼女に俺はそっとキスをした。
触れるだけのキス。それなのに、彼女の唇が細かく震えているのがわかる。
顔を離すと、彼女はまたねと泣き出しそうな顔で笑った。
最近はこんな無理のある顔でしか笑わない。
このままだと本当に彼女の笑顔を失ってしまう。
取り返しがつかなくなる前に、彼女に言わないといけない言葉がある
俺はぎゅっと拳を握りしめると、首を振った。
そして、ゆっくりと口を開き、震える声を絞り出す。
「ごめん、別れよう」

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