通りに何気なく建っているカフェの前で、僕はいったん足を止めた。
けっして大きくはない、けれどこぢんまりと表現するほど小さくはない、なんの変哲もないお店。あえて言うなら、オシャレな外観をしている。
知らない人が見たら、普通のカフェなんだろう。でも、今の僕にとっては全然普通じゃない。
店の前を横切るだけで、いや、通りの角から視界に入っただけでも、この店は存在を主張してきて、僕はここ――『サンライズ』を強く意識する。
僕は目を閉じ、いったん意識を絡め取るこの店を視界から消す。そうして、小さく深呼吸を1回。
浮き足立っていた気持ちが整ったのを確認してから、目を開けた。
「……よしっ」
小さな声を出すことで気合いを入れ、扉をゆっくりと押した。
「おはようございます」
僕の声とドアに取り付けられたベルの音が静かな店内に響く。
すると、開店準備をしていたらしい彼女が僕を振り返った。そうして、いつものようにおはようと僕に笑いかける。
「おはようございます」
僕もぺこりと頭を下げて、もう一度、彼女に挨拶をする。
いつも通り、平静を装えたと思う。……少し、声が冷たい感じになってしまったのが不満だけど。
でも、横目で彼女を伺うと、特に気にした様子もなくまたテーブルを拭き始めたので、ホッとする。
肩にかけたカバンの紐をぎゅっと握りしめ、僕は準備をするべくバックヤードへと足を向けた。
……と、背中から彼女の声がかかる。
「……! は、はい?」
まさか、名を呼ばれるとは思わなかったので思わず心臓が跳ねた。ドキドキしながら振り返ると、今日も頑張ろう……と彼女は眩しく笑う。
僕は頬が赤らむのを自覚しながら、大きくうなずいた。
「……はい!」
そして、思う。……ああ、やっぱりこの人が好きだな、と。
それまで、僕の中で色恋沙汰なんて優先順位の一番下に位置するものだった。
どうせ結婚なんて時期が来れば親が選んだそつない相手とするのだから。
敷かれたレールに、十分な人生が用意されているのなら、それに沿って走って何が悪い。
それに、恋に溺れて自分を見失うなんてよく聞く話だ。くだらない。なぜ、己を制御できない状態に、追い込まなければならないのだろうか。
そう、思っていた。
あの雨の日までは――。
その日、僕はとある店の軒下で、厚い雲から次々と落ちてくる大粒の雨を眺めながら、肩を落としていた。
天気の急変は予兆なくやってきた。
ふと、足下の影が薄くなった気がして空を見上げていたら、色濃い雨雲がもくもくと空を覆っていったのだ。
まずいと走り出した時には、もう雨が降り出していて、近くにあるこの店の軒下に逃げ込むのがやっとだった。
(スニーカーも買ったばかりだっていうのに、最悪だ……)
頭上に広がる空と同じぐらい、どんよりした心を抱えてため息をついていると、カランコロンとドアベルの音がしてお店の扉が開いた。
「あ……」
軒下で雨宿りしているだなんて、営業妨害だと文句を言いに来たのだろうか。
緊張しながら振り返ると、そこには店員らしきひとりの女性が顔を覗かせていて、僕を見るとその顔に笑みを浮かべた。
「……っ!」
ドキン――と心臓が跳ねた。顔がカァっと熱くなる。
(な、なんだ……?)
自分の異常に、思考が焦る。
何かの病気か、それとも――などと、混乱する頭で考えていると、目を離せずにいる彼女から、手を差し出される。
「え……?」
手にはふかふかのタオルが綺麗に折りたたまれて乗っていた。
「あ……? え……?」
タオルと彼女の顔を見比べていると、どうぞと微笑まれた。
「……っ」
また、心臓がぎゅっと痛くなる。やっぱり、何かの病気かもしれない。
(……じゃ、なくて――)
「どうぞって、その……?」
なんとか相互理解を深めようと、言葉の意図を尋ねる。
すると、濡れているから……と答えられた。
「あ……」
このタオルで濡れた身体を拭くように勧められているのだと、ようやく気づく。
また、カァっと顔が熱くなった。今度は羞恥心で。
(理解できた、大丈夫……って、大丈夫じゃない!)
心の中で自分に突っ込みつつ、僕は恥ずかしさで背けていた顔を再び彼女に向ける。
「い、いいんですか……?」
僕の身体を拭いたら、このふかふかで気持ちよさそうなタオルはぐしょぐしょに濡れてしまうだろう。
そんなことをしてもいいのかと躊躇う僕に、彼女はにっこりと笑ってうなずく。そして、よかったら中で雨宿りをどうぞ……と扉を大きく開けた。
「そ、そこまで、お世話になるわけには……!!」
慌てて首を振る僕に、大丈夫だと彼女はお店の中に入っていく。
「ま、待ってください!」
僕は渡されたタオルを握りしめて、店内へと続いた。
軽快に鳴るドアベルの音を聞きながら扉をくぐると、香ばしい匂いが僕を包み込む。
「あ……」
ワンテンポ遅れて珈琲の匂いであることに気づき、それからさらに遅れて、軒下を借りていたこのお店がカフェであることに気づいた。
(こんなところにカフェがあったんだ……)
何度か通ったことがあったのに、気づかなかった。
呆然と店内を見回していると、珈琲を飲んでいかないかと、彼女から新たな声がかかった。
「そ、そこまでお世話になるわけには……!」
慌てて固辞し、それから、『お客』として飲んでいけと言われたのかもしれないと気づく。
「あ……」
また恥ずかしくて、顔が熱くなった。
(珈琲の一杯でも飲んでいけば、タオルのお礼になったかもしれないのに……!)
けど、今さら「やっぱり飲んでいきます」とも言いづらい。
(誤解じゃなくておごるつもりだったら、それこそ申し訳ないし……)
とにかく、僕は先ほどからの失態を取り戻さなければならなかった。
慌てて視線をさまよわせ、起死回生の言葉を探す。
と、揺れる視線の向こうで彼女がクスクスと笑っているのが見える。
「……あ」
頬の火照りが収まらないまま彼女を見ると、だったらお水を持ってくると、彼女は店の奥へと消えていった。
「………………」
ずきんと胸が痛んだ。切なくて、涙が出そうになる。
この感情はなんなのだろうか。
数日後。
僕は借りたタオルを返しに再び彼女のいるカフェ――『サンライズ』を訪れた。
柔軟剤をたっぷり使って洗濯したタオルはしっかり乾燥させ、綺麗に折りたたんで紙袋に入れた。突然の雨に降られても大丈夫なようにその上からビニールで包んである。
大きく深呼吸をして気持ちを整えてから、ドアを開ける。
店内に入ると、ドアベルの音に反応して彼女が僕を振り返った。
「……っ!」
途端、息の仕方を忘れる。
彼女はにこやかに笑いながら、僕に歩み寄ってくる。
(そんな顔で、笑わないでほしい……)
自分の感情制御がままならなくなってしまう。
「……あの、タオルを返しに、きました」
暴れる感情をできるだけ表に出さないように努めながら頭を下げると、彼女がお礼を言いながらビニールに包まれた紙袋を受け取ってくれる。
「あ……」
僕は慌てた。このままでは、これで彼女との接点が『終わって』しまう。
(珈琲を飲んでいく? でも、飲み終わって会計をしたら終わりだ。なら、ここに通う? でも、それってストーカーっぽくないか?)
頭の中をいろんな考えがぐるぐるしては、まとまらずに散っていく。
(何か……何か、言わないと……)
話題を探し、可能性を探し、視線を泳がせていると、ふと壁に『バイト募集』と書かれた貼り紙を見つけた。
マジックで「バイト募集」という要件だけをデカデカと書いてある。
オシャレな店内で唯一デザイン性のない貼り紙。これだと思った。
「あのっ! ここで働かせてください!」
気持ちの限り叫び、目を丸くした彼女の顔を見て、しまったと慌てる。
「その……バイトを、してみたくて。タオルを借りたのも何かの縁ですし……お願いします!」
顔どころか全身が熱い。でも、お腹に力を入れて、なんとか語尾まで聞こえるよう声を張り上げた。
どうしても退くわけにはいかない。あれは、きっと彼女の傍に居続けられる理由になるのだから。
「よう、来たか」
自信に満ちた声が、僕の心を『今』に呼び戻す。
振り向けば、店長――大和さんが奥から出てくるところだった。
「今日もよろしく頼むな」
大和さんはそうにこやかに笑って、僕の頭をガシガシと撫でる。
「……やめてください」
「お前、本当に懐かない猫みたいなヤツだな」
「礼節ある態度を期待するのであれば、『懐く』なんて失礼な物言いをやめることから始めてはどうですか?」
「なるほど? 『アイツ』には懐いてるのはお前が礼節を重んじるだけの『何か』があると感じているからか」
「懐いていません! というか、猫に喩えるの、やめてください!」
怒鳴り声を上げると、テーブルを拭き終えたらしい彼女がこちらにやってきて、自分にも気を許してくれてないのか……と寂しそうな顔をする。
「あ……そ、そういうわけではなく……」
「はははっ! 大変だな、少年!」
どう言い訳をすればいいのかと慌てていると、元凶の大和さんが無責任に笑う。
「……っ!」
とっさにいい文句も出てこなくて、大和さんを睨みつけると、とても優しい微笑みを浮かべられた。
そして、僕の頭をもう一度ガシガシと撫でる。
「まあ、少しずつ経験積んでけ。その場は提供してやるぜ」
荒々しい手つきも声も、びっくりするぐらい優しくて、僕は照れくさくなってしまう。
(まったく、この人達はもう……)
関わると、自分で自分の制御ができない。今まで僕が馬鹿にしてきた恋に溺れる人間のようだ。
でも、不思議と昔の僕が『無駄だ』と切り捨てていたこの時間が、彼らとの関係が、無駄だとは思わない。
むしろ、僕の人生を豊かにしてくれることだろう。
先の見えない未来は、不安と希望で僕をとてもドキドキさせてくれるのだった。