Stellar Calendar

「休憩入りまーす」
そう断って店のドアを開けると、ひんやりとした空気が俺を包み込む。
温度と匂いから季節が移り変わろうとしているのを感じる。
(ようやく身体と心が馴染んだと思えば、次だ)
人の営みも自然も。何もかもが目まぐるしく移ろい、変わっていく。その速度に息切れすることなく、ついていけるヤツなんているのだろうか。
(……ああ、いるな)
ふと、よく知る顔が脳裏に思い浮かぶ。きっと、季節や時代の速度なんて追い抜いて、なんなら運さえも味方につけて尊大に笑うであろう顔。
(まったく、羨ましい)
小さくため息をつき、俺は非常階段へと足を向けた。
心許ない鉄製の踏板に身体を預けながら、踊り場に出る。
ちょうど夜風が吹き抜けて、俺の身体を撫でていく。体温を盗まれた身体が、ぶるりと震えた。
その震えが逃れきってから、ポケットから携帯灰皿とタバコ、ライターを取り出す。
風に消されぬよう、手で覆いながらタバコに火をつけ、大きく煙を吸い込む。
ニコチンを多めに含んだ鈍く重い香りが喉を通って肺を満たす。
「…………ふぅ」
息と共に吐き出し、俺は欄干に身を預けた。
寒いと感じた夜風は、今は心地よく感じる。ニコチンがほどよく思考を奪っているのかもしれない。
『な? 断然そっちだろ?』
この銘柄を勧めてきた兄貴――大和のドヤ顔が脳裏に浮かぶようだ。
(……くそっ。悔しいけどあんたの言うとおりだよ)
俺には兄がいる。ただし、俺と同じ『鉄』を名乗っていない。
だからってわけじゃないが、俺が兄貴に抱く感情は複雑だ。
多分、俺は誰よりも兄貴に憧れていて、誰よりも兄貴にコンプレックスを持っているんだと思う。
(……単なるブラコンか)
自身に苦笑して、タバコの煙をまた取り込む。
もちろん、兄貴に勝っていると思ってる部分はある。
料理は断然俺の方がうまいし、酒の目利きも上だ。
(けど、兄貴に敵わないって思うのは、そういうとこじゃない)
俺は、眼下に広がる夜景を見下ろす。
キラキラと眩しい街の光は、宝石箱をひっくり返したようと表現するにはあまりにも明るく煩雑だった。
綺麗なことは綺麗だが、やかましすぎて少し疲れる光。
けど、兄貴が同じくこの光景を見たら、俺とは違う感想を抱くだろう。
(そして、俺はその感想を『カッコイイ』って思うんだ)
ついた肘に顎を乗せてため息をついた時、ポケットの中でスマホが震えた。
「………………」
嫌な予感を覚えつつも、取りだして届いたメッセージを確認する。
『明日もよろしく。9時集合で』
予感的中だ。
メッセージの送り主は件の兄。兄貴は俺に手伝いを頼んでくる。
兄貴の経営するカフェ――サンライズは、知る人ぞ知る店ではあるが、わりと顧客が多い。居心地の良さと珈琲や軽食の味が人気なのだ。よって、たびたび人手不足が起きる。
カフェを開業する際、兄貴から店員として働いてくれと頼まれたが、即答で断った。
きっと近づきすぎると、憧れよりもコンプレックスの方が大きくなる。兄貴のことを嫌いにはなりたくなかった。
渋々、兄貴は店員を雇ったがそれでも人手が足りないらしく、結局俺まで呼びつけてくる。バイトも増やした上なので、さすがに文句は言えなかった。
想定以上に繁盛しているので、そのうち、ひょっこり2号店ができそうだ。その際は開業の時よりも大きなノーを突きつけないと、あっという間に店長に担ぎ上げられるんじゃないかと危惧している。
(さて……どうするか)
俺はスマホを睨みつけるように見つめた。
兄貴が呼びつけるのはいつも前日とか、最悪当日って場合もある。
(俺が断るとは思ってないのか? ……ないんだろうな)
なら、たまには断ってみてもいいかもしれない。当日じゃない分、かける迷惑は少ないだろう。
その時、『あの兄』はどうするのだろうか――。
そんなことを考えていると、スマホが別のメッセージを受信する。
「…………」
開いてみると、この間知り合った女からの誘いだった。
(……相性は悪くなかった)
俺はスマホに文字を打ち込み、返事を送信する。
(まあ、スッキリしてくるか)
スマホをポケットに突っ込み、身体を起こしてバーに戻るために踊り場を後にする。
(寝過ごして手伝いに行けなくても、兄貴に都合のいい言い訳ができるだろ)
見えない腕が絡みついてくるような、そんな得体の知れない感覚から逃げるように、足早に非常階段を下りた。

翌日。
「おはよ……」
ドアについたベルの音に出迎えられながら、サンライズのドアを開ける。
時刻は指定された時間の約10分前。眠い目をこすっていると、奥からこのカフェの店員である、彼女が駆け寄ってきた。
「……?」
来てくれたと、まるで救世主を見るような目を俺に向ける。
「あれ? あんただけ? 兄貴は?」
呼びつけた本人の居場所を尋ねると、病院だと即答された。
「は? なんで?」
詳しく聞くと、昨夜、手を怪我したらしい。その上、今朝、怪我をした手で無茶をしたから、再び病院に行く羽目になったとのこと。
さらに運が悪いことに、バイトで雇っている光星は今日に限って大学で丸一日大事な講義があるらしい。よって、俺に白羽の矢が立ったのだと説明される。
「バッ――!」
……カじゃねぇのと、言いたかったのに、感情が詰まって言葉が途切れた。
人間ってのは気持ちが詰まると、言葉も詰まるんだなと、停止した頭が呑気な感想を思い浮かべる。
「……はあ。兄貴はホント、言葉が足りないんだよ。怪我したなんて、真っ先に言えっての。光星のことも付け足しとけ。危機感を伝える正確性、上がるから」
ようやく文句が漏れて、膨れ上がった気持ちが落ち着いてきた。
「来るの、遅くなって悪かった」
俺は、店の中へと足を向けると、道中にいる彼女の頭をぐしゃっと撫でる。
「奥で仕込めるだけ仕込んでくる。ただし、今日のモーニングは中止な。その説明、頼めるか?」
俺の言葉に、彼女が真剣な面持ちでうなずく。頼りなさげな空気は消えているので、どうやら仕事のスイッチが入ったらしい。
(覚悟決めるとこと、その度胸あるとこ、いいよな)
「珈琲の準備は頼む。焙煎とか難しいって思うヤツは欠品で。もし隙間時間に『できそうだ』と思ったら、ゆっくりでいいからやってみて。責任は俺が持つ」
この言葉にも、しっかりうなずいてくれる。
「んじゃ、開店まであと10分。気合い入れてくぞ」
もう一度、ぐしゃっと頭を撫でてから手を離すと、彼女が元気な声で勢いよく頭を下げる。
「ん。こっちこそ、よろしく」
頭を上げた彼女が嬉しそうに笑う。その笑顔に釣られて俺の表情も緩む。
なんとなく、笑う彼女の頭をもう一度撫でて、俺は今度こそ厨房へと向かった。
背中で彼女も忙しく走っていく気配がする。
「………………」
俺は、兄貴に憧れていて。
一緒に働くとコンプレックスが強くなるであろうほど、すごいと思っていて。
必然的に、兄貴が経営するカフェも好きで。
(最近は、もっとここで過ごす時間が好きになってる)
だから、朝が弱くても、唐突に呼びつけられても、なんだかんだとここに足を向けている。
頭は夜更かしした後だなんて、思えないぐらい冴えていた。
それは、多分、今、店内で一生懸命開店準備をしている彼女の存在も大きいだろう。
(彼女も兄貴を尊敬していて、この店を頑張って回そうとしてる)
兄貴と似ているようで違う。まるで、気持ちを共有する仲間のような、同志のような、他の何かのようなそんな心強さと心地よさ。
(いいよな……)
自然と顔が緩んだ時、後ろでガシャーンと派手な音が鳴り響いた。
「……!」
振り向くと、急ぎすぎてテーブルを倒してしまったらしい彼女が青い顔で後始末をしようとしゃがむところだった。
「大丈夫か!? いいから、まず落ち着け! 手でガラスを拾うな! 兄貴の二の舞になるぞ!」
俺は慌てて彼女に駆け寄る。そして、その弾みに椅子に立てかけられていたモップを蹴飛ばし、バケツとその中に湛えられていた水を床にぶちまけてしまった。
「あ……」
この調子だと、準備は開店時間に間に合わないだろう。まだまだ俺たちは、ふたり合わせても兄貴と同じ働きはできないようだ。

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