Stellar Calendar

カフェ『サンライズ』の前に立ち、扉に手を伸ばす。
「…………」
力を入れて押す前、いったん動きを止める。ここに通うようになってから、そんな癖ができていた。
ふわっと心から身体が浮くようなちょっと不思議な感覚。むずむずするけど嫌じゃない。そんな感覚が足下から頭のてっぺんに抜けていくのを見送って一呼吸。そして、改めて扉を押す手に力を込める。
カランコロンと軽快なドアベルが響いて、店内の視線が俺に注目する。
窓辺でミーティングしてる音楽野郎どもとか、鉛筆片手にスケッチブックと格闘していたらしい漫画家とか、その漫画家からタバコの箱を取り上げたバイトとか、高校時代のおっかない先輩だとか。
そして、彼女も。
「……よう」
軽く頭を下げて挨拶をすると、俺を見る顔が満面の笑みを浮かべる。まるでお日様みたいに眩しくて、さっき扉の前で感じたものよりももっと強い浮遊感が生まれた。
鏑木くん――そう、彼女が俺を呼ぶ。
いつものように。高校の頃みたいに。
そして、どうぞ――と俺を店内に促した。
「どうも」
もう一度、頭を下げ、俺は適当な席へと向かう。
メニューを取りに小走りに奥へと向かう彼女の気配を背中で意識しながら――。
(……なんていうか、世の中、何が起こるかわからねぇな)
音楽野郎どもと、やけに穏やかになった高校時代の先輩との間の席に「堅気のもんです」みたいな顔して座りながら、俺はしみじみ思う。
(……もう、二度と会うことはねぇって思ってたのに)
そう、目を閉じて俺はこの店で彼女と再会した時のことを思い返した。

組の会合を終え、適当な理由をつけて送迎の車を降りた俺は街をぶらぶらと歩いていた。
手頃な女を呼び出して鬱憤を晴らすことも考えたが、あいつらもあくまで『ヤクザ』としての俺と向き合う。
俺がヤクザなのは変えようのない事実だが、たまに自分の立場に肩が凝って全部忘れてしまいたくなる時がある。それが『今』だった。
「……ん?」
その店が目に留まったのは、たまたまだった。
ありふれた――いや、ちょっとオシャレな外観。外に出ている黒板に書かれているメニューで、カフェであることがわかる。
(……ハワイアンパンケーキ、か)
書かれているメニューのひとつが目に留まった。実は少し気になっていたスイーツだった。
もちろん、組のものを連れて食べに行けるわけがない。
ただの男だったとしても、なかなかハードルが高い代物だが、今なら『ヤクザ』という看板を隠せるだけ少し手が届きそうな気がした。
(ちょうど喉も渇いているし、行ってみるか)
自分自身にそう言い訳しながら、俺はその店の扉を開けた。

カランコロンと軽快な音が店内に響き渡り、中で動いていた店員が弾かれたようにこっちを見る。
「……っ!」
とっさに息の仕方を忘れたのは、堅気の人間の注目を浴びたからだけではなかった。
(なんで――……)
店員――いや、彼女の顔には見覚えがあった。
(忘れるはずがない……)
高校時代、ずっと彼女の存在が心にあった。その温かさに助けられた。
でも、卒業と共に顔を合わせることはなくなった。
彼女は俺を見て、2・3回、目を瞬かせ、そしてあの頃のように笑った。
久しぶり――と。
「……あ、ああ。覚えて、いたのか」
絞り出した声は、かすれていた。
でも、彼女は気にも留めてないようで、お好きな席へどうぞと俺を店内に促す。
あの頃と同じように、俺を『鏑木くん』と呼びながら。
あの頃と同じように、俺を対等な存在として見つめながら。

鏑木くん――と、名前を呼ばれて俺は目を開ける。
すると、彼女が俺のテーブルの前に立っていて、グラスに入った水を置くとあの日のように俺にメニューを差し出した。
「どうも」
メニューを受け取って中を開く。
いつものように右下に書いてある『ハワイアンパンケーキ』に目が留まった。
(……今日こそ、頼むか?)
考え込んでいると、左隣から声がかかる。
「おすすめは本日の珈琲だよ」
「……!」
振り向くと、音楽野郎ども3人組がじっと俺を見ている。
「ナントカ種っていう珍しい豆なんだってさ。焙煎もうまくいったって、大和さんから嬉しそうにうんちく聞かされた」
「俺は、ブラックはパス」
「………………」
彼らのテーブルに目を落とすと、カフェオレとミルクの入った珈琲が置いてあった。唯一、グループの世話焼いてるおっとりしたヤツの前のカップのみブラックの珈琲が入ってる。
はよく飲めるよな、これ」
「苦みは強いけど、おいしいよ。大和さんが自慢するだけあるな」
そう笑って、そいつはカップを手に取り真っ黒な珈琲を一口飲む。とてもおいしそうに。
「………………」
思わず顔が歪みそうになる。寸での所で表情を変えずに済んだのは、彼女が注文をどうするか、声をかけてきたからだ。
「……じゃあ、本日の珈琲で」
音楽野郎どもの期待に満ちたまなざしを額とか頬とかに感じながら、期待通りの注文を口にする。
途端、隣の空気が華やいだ気がした。俺と珈琲の味を語り合うのをワクワクしてる期待感がのしかかる。
(……今日は一段とキツそうだ)
心の中だけでため息をつきつつも、でも悪くないなと思う。
昔、俺が知らないところで、クラスのヤツらはこんな風に騒ぎ合っていたのだろう。
(あの時は、こんな空気なんて知らなかった)
俺はヤクザの息子だから、クラスどころか学校中から爪弾きにされてて、人目を避けて通用口近くの階段で過ごすのが常だった。
(……でも)
俺は、メニューを返しながら彼女を見る。
あの頃のように、彼女は穏やかな顔で俺を見つめ返してくれる。
(彼女だけがそばにいてくれた)
人気のない階段は、逆に言うと彼女とふたりきりの時間を俺に用意してくれた。
最初こそは戸惑っていたものの、俺は次第に彼女と過ごす時間が待ち遠しくなり、やがて大切なものになっていった。
(……惚れねぇ、わけがねぇよな)
あの時生まれた想いが胸に蘇って、自嘲で唇が歪んだ。
(それでも、離れようとしたんだ。ヤクザに惚れられても困るだけだ)
だから卒業とともに関わりを断ったというのに、今、こうして彼女が働くカフェに足繁く通ってる。
苦手な苦い珈琲を、修行のように心頭滅却して喉の奥に流し込みながら。
メニューを手に取った彼女がきびすを返す直前、今度は右隣から声がかかる。
「珈琲だけでいいの?」
「……!」
振り向くと、高校の頃の先輩――荒金先輩が穏やかな顔でこちらを見ている。
「今日の珈琲は、チョコレート系のスイーツと合うよ?」
「…………いえ、珈琲だけで」
荒金先輩の提案にはものすごく心が引かれたが、彼や他の面々――特に彼女にスイーツを食べるところを見られるのは少し――いや、かなり恥ずかしかった。
(……普段食べてねぇ分、みっともねぇ顔で食べそうだ)
彼女は伺うようにもう一度俺を見る。
「いや、本当に珈琲だけで大丈夫だ」
俺の言葉に彼女は少し考え込み、やがてわかったとうなずいて去っていく。
(……ふぅ)
誰にも気づかれないよう口の中だけで息をついていると、再び荒金先輩から声がかかる。
「ふふっ、ずいぶんと丸くなったね」
「……そう言う荒金先輩こそ、丸くなりましたね」
ほとんど遠巻きに眺めていただけだが、あの頃の荒金先輩はもっと険しい顔をしていた。
(触れると切れるナイフのように――)
ヤクザの息子である俺すらも、彼を目にすると緊張に身が強ばったぐらいだ。
なのに、今、目の前にいる彼はとても穏やかに笑っている。
(まるで、別人みたいに)
「さすがに、いつまでも拗ねていられないからね」
荒金先輩はまるで俺がよくやるように自嘲のような苦笑いを浮かべて、珈琲カップを手に取った。おそらく、音楽野郎どもと同じ本日の珈琲らしき黒く苦そうなそれを、ブラックでおいしそうに飲む。
「けど、今の方があの頃よりも気軽に『青春』を楽しめてる気がするな」
カップをテーブルに戻し、荒金先輩は店内に視線を向け、その目を細めた。
「……そうですね」
俺も同じように店内を見回す。
(ここはいつも温かな空気で満ちてる……)
そりゃ、ヤクザって物騒な身分は明かしてないが、おそらくみんな、俺から異質な空気は感じているだろう。
(……今まで、散々それで敬遠されてきたからな)
でも、ここは俺を拒絶しない。荒金先輩だって、俺がヤクザの息子だって知ってるのに、隣で穏やかに笑っている。
(……まあ、もう一人の先輩はまだちょっと突っかかってくるけど)
それでも、ヤクザって身分に言及してくることはない。
みんな、自分たちの時間を、提供される珈琲や軽食で楽しんでる。
もちろん、俺も。
その時、お待たせしましたと彼女が注文の珈琲を持ってやってきた。
「……どうも」
カタンと置かれた珈琲カップを手に取る。間近で見ると、珈琲はいつもより黒く苦そうに見えた。
(……いや、先入観かもしれない。どっちにしろ、いつものように流し込めば一緒だ)
覚悟を決めて、無心で珈琲を口に運んだ。そして、口の中に流し込み――。
「……!」
口の中に広がる甘味に俺は目を見開いた。
「え――」
びっくりして彼女を見ると、彼女は内緒話をするように俺の耳に顔を寄せる。
そして、飲みやすくなるようにハチミツを入れておいたと囁いた。
苦みが不得手でもおいしく飲んでほしいから――と。
「そう、か……」
照れくささで熱くなる顔を隠すように下を向く。
見抜かれていた恥ずかしさもあるが、何故か同じぐらい……いや、それ以上に胸が浮かれた。いつもこの店を訪れる時に感じている以上に、うずうずする。
「うん? どうしたんだ?」
俺たちのやりとりを見て、不思議そうに音楽野郎どもが声をかけてくる。
「その珈琲がどうかした?」
首をかしげる世話焼き係に、彼女はにっこり笑った。ちょっとした隠し味を試してみたんだと。
「え! ズルーい」
よく響く声を上げて拗ねる末っ子ポジションの男――確か、名前はとかいったその男に彼女は先着一名限りなんだといたずらっ子のように人差し指を立ててみせる。
(……本当、ズルいよな)
そんな『特別』感だされるような真似をされると、俺が勘違いしてつけあがる。
(そろそろ、ここに来るのも自重しなきゃなんねぇだろう……って思ってたのにな)
どうやら、俺を迎え入れてくれる温かな空気と彼女を求めて、もうしばらくここに足を運ぶことになりそうだ。

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