朝は一杯の珈琲から。
……なんて言うと、ずいぶんとオシャレで優雅なものに思えるが、単にまだ寝てる頭をカフェインの暴力でたたき起こすためだ。
ついでに、新しいブレンドやら、焙煎具合なんかを確かめるためでもある。
(非常に合理的。でも、たまーに味に妥協しなきゃなんねぇのが難点だ)
「ふぁああ~……」
大きなあくびをしながら、挽きたての豆をドリップしていく。
ドリップのコツは、ゆっくり湯を注ぐこと。けど、どうせ飲むのは自分なんだし、さっさと抽出したいので、朝の一杯はドバドバといく。
(その代わり、粉は多めで。そこで苦さを補強)
『ったく、兄貴は大雑把すぎるんだよ』
ふと、脳裏にアイツがぶつくさ文句を言う幻聴が聞こえてくる。
まあ、幻聴とは言ってもかつて何度も聞いた言葉だし、今アイツが目の前にいてもきっと一言一句同じことを言ってくるのは確信できる。
「いいんだよ。うまけりゃ、問題ない」
イマジナリー弟の文句を笑い飛ばして、俺は役目を終えたドリッパーを外して、マグカップを手に窓際の席へと向かう。
どかっと深く腰掛け、マグカップを顔に近づけると、淹れ立ての珈琲の匂いがふわりと漂ってくる。
その香りに満足し、次は一口飲んで味を確かめる。
「……よし」
悪くない味だ。
というか、豆を惜しみなく使っている分、贅沢な味だ。
今日の出来は上々。イマジナリー弟の舌打ちが聞こえてくるようである。
『……なんで、アレでうまいんだよ』
自分が生み出した幻聴に満足し、俺はふと、とあることに気づく。
「ん? そういや、光星から連絡、ないな」
いそいそとスマホを取りだし、メッセージを確認する。しかし、うち唯一のバイトである光星とのやりとりは、一昨日に送った『来れないようだったら連絡して』で終わっている。
(……つーか、そもそも既読、ついてねぇ。こりゃ、ヤバそうだな)
季節外れの風邪を引いたという話だったが、連絡すら難しい状況に陥っているようである。
「本人の無事は後で確認に行くとして……こっちは、奥の手発動か」
スマホをタップし、連絡先をショートカット登録している相手に変更する。
(怒るだろうなぁ……)
苦笑いを浮かべながら、画面をタップして文字を入力し始めた時、店の奥で物音がした。
「……ん?」
顔を上げると、厨房から支度を終えた彼女が入ってくる。
「よう、おはよ」
挨拶をすると、彼女もぺこりと頭を下げて挨拶をしてくれた。
それから、いつものように開店準備を始める。
店長である俺が窓際で呑気に珈琲を飲んでいても、文句を言うことはない。
(イマジナリー凛太郎とは大違いだな)
素直で働き者。良くも悪くも従順で、ちょっと不器用。でも頑張り屋。
このあたりが、俺が彼女に抱く感想。
(……まあ、それだけじゃねぇけど)
ここで仕事を始めた時は、もっと不器用だったし、どうすればいいかよく俺に助けを求めてきた。
(それがまあ、ひとりで開店準備できるようになるまで成長するなんてさ。しみじみしちゃうね)
最初は、手際の悪さに珍しく勘が外れたかもしれねぇなと少し心配になった。
うまく仕事を回せない自分をもどかしく思って悩む姿を何度も見たから。
こりゃ、さっさとやめちまうかもしれねぇなとも思ったが、杞憂だった。
(ま、自分で『やりたい』って志願してきたんだ。ちょっとうまくいかないぐらいで簡単にくじけるようなヤツなら、もとから『欲しい』なんて思うはずねぇって)
そもそも、このカフェは、さっき脳内で散々文句を言ってきた弟――凛太郎と一緒にやる予定だった。
「なのに、アイツ――」
思い返して湧き上がってきた感情を、ぐっと喉の奥に飲み込む。
それから、その気持ちが戻ってこないように、上から珈琲を流し込んだ。
「………………」
ふと、店長である俺を呼ぶ声がして我に返る。
見上げると、彼女がすぐ隣に立っていた。
「ん? どうした?」
彼女は俺が握りしめたままのスマホを指さし、何をするつもりなのかと尋ねてくる。
「んー。珈琲を飲んでたら、凛太郎のこと、思い出してさ」
俺を見る彼女の表情が『確信』に変わる。多分、尋ねる前から俺の意図に気づいていたのだろう。
だが、俺はあえて彼女が察しているであろう内容を伝えるために、言葉を続ける。
「珈琲の淹れ方が雑だとか、なのに、その珈琲がなんでうまいのかとか。俺の想像の中で、あれこれ文句言ってくんだよ、アイツ」
そこでいったん、言葉を句切って、珈琲をもう一口。
「そんな風にグダグダ文句言われながら、一緒にこの店やれたら、すごく楽しかっただろうな……って思ってさ」
肩をすくめて見せると、彼女の顔色が少し曇った。
そこで、俺は自分の失敗に気づく。
彼女はきっと、自分の能力が俺の期待に応えられているのか、不安になったのだ。
「ああ、違う違う」
勘違いさせてしまったと、マグカップをテーブルに置いて腰を上げる。
「お前はお前ですごく役に立ってくれてる。これもあくまで一緒に店をやらねぇって突っぱねてくれた凛太郎のおかげだな。面接でお前と出会うきっかけをくれた」
安心させるようにぐしゃっと頭を撫でると、ようやく顔を上げ俺を窺う。その表情からあらぬ不安が消えているのを見て、ホッと安堵した。
「……ありがとな、凛太郎。安らかに眠れ」
逆の手に持ったままのスマホに向かって感謝を告げると、まるで凛太郎が死んでいるようだと彼女から突っ込みが入る。
「いや、だってさ。アイツ、夜職だし、まだ寝てるだろ」
しかも、昔から朝が弱いのもよーく知っている。
「……まあ、これからたたき起こすんだけどな」
俺は残りの文字を打ち込んで、さっと凛太郎に送信した。
送信ボタンを押してスマホが軽い音を立てたのと同時に、彼女が青くなって小さく声を上げたのを見た。
「つーわけで、約1時間後に怒鳴り込んでくるから、防波堤になってくれ。よろしく」
俺はもう一度、彼女の頭をくしゃっと撫でる。
俺が凛太郎に一緒に店を開こうと誘った時、アイツは『いやだ』と即座に断ってきた。しかも、あえてでかい声で、わざとらしく顔をしかめながら。
仕方ないので、アイツの意思を尊重して、他のスタッフ……つまり、彼女や光星を雇うことにしたのだが、それでも忙しい時はまだ人手が足りない。
そういった時は、遠慮なく凛太郎を呼び出している。そして、毎回それが前日だったり、今日みたいに当日だったりするものだから、アイツはいつも「もっと早く言え」と不平不満を容赦なくぶつけてくるのだ。
(いや、こっちだってわかってるなら、早く言うんだけどさ)
本人不在で言い訳していると、頭に乗せたままの手の下から、ちょっと気の張った彼女の声が、様子を窺うように響いてくる。
「……実はさ、シフト入ってもらえないか光星にメッセージ送ったんだけど、連絡取れないんだよ。こりゃ、無理だなって俺の勘が告げてるから、素直に従おうと思う」
明らかに様子がおかしい今回のことは別として、不思議と俺の勘はよく当たった。今まで外れた覚えがない。
彼女を採用した時もそうだった。
従業員を雇うのは乗り気じゃなかったが、背に腹はかえられないと履歴書を受け取って面接をした。
そこで、応募してきた彼女の顔を見た途端、ビビッときた。
ああ、コイツ、必要だわ――と。
(名前と住所、聞いて、労働条件を提示した後、「んじゃ、採用で」って言ったら、スゲーびっくりした顔されたんだよな)
でも、その後、「一緒に頑張ろうな」って声をかけると、そのびっくり顔がすぐに一転した。
その面持ちに、まず俺はやられちまったんだと思う。
「さーて。気合い入れて頑張りますか」
軽く頭を振って気持ちを『今』に切り替える。
すると、顔を上げて彼女が笑う。
面談の際、見せたのと同じように俺の心を撃ち抜く笑顔で。
「……期待してんぞ」
俺はもう一度彼女の頭をぐしゃっと撫でた。
『サンライズ』と名付けたこのカフェで、俺は今日も彼女とたくさんの客を迎える。
訪れた人においしい珈琲とホッとしたひとときを提供するために。