
糊のきいた仕事着を身に纏い厨房に立つと、『荒金芽生』という人間ではなく、『料理人』へと気持ちが切り替わる。
大げさに言えば、見える世界も変わる。
考え方はどれだけ素材をおいしく活かせるかを中心に組み上がるし、どう調理すれば目の前のお客さんにおいしく食べてもらえるかを元に行動する。
調理に集中したいし、食材と向かい合うこと以外無駄にすら思える。
「芽生、大事なのは『完璧な料理を出す』事じゃないぞ」
師匠はよく一心不乱に調理する俺をそうたしなめた。
「肩の力を抜け、前を見ろ。ほら、客はどんな顔でお前の料理を食べてる?」
今もそんな師匠の声が脳裏に響いてハッと顔を上げる。
真っ先に飛び込んできたのは、おいしそうに俺が作った料理を食べている彼女の姿。
その幸せそうな顔を見て、心が緩む。
続いて、小料理屋『荒金』のカウンターを意識し、店内が広がっていく。
「…………ふぅ」
肩から力が抜けた。「いい感じだ」とにこやかに師匠が肩を叩くイメージが広がる。
(……ありがとうございます)
心の中でお礼を言っていると、俺の様子が変わったのに気づいたのか彼女が顔を上げる。
「ああ。うん、ごめん」
彼女に心配をかけないよう微笑む。
(そう。『おいしく』食べてもらう為に必要なのは『料理のおいしさ』だけじゃない)
「――ちょっと肩に力が入っちゃって。師匠の言葉を思い出していたところ」
彼女は目を丸くし、不思議そうに首を傾げた。
「俺だって肩に力ぐらい入るよ。どれだけおいしい料理を作れるかっていうのは、言ってみれば人生かけての課題みたいなものだし。それに――」
そこで言葉を句切って、口元に手を当て軽く咳払いをする。じゃないと、緊張で掠れた声が出そうだった。
「何よりも大切な人に『おいしく』食べてもらおうと思ったら余計に……ね」
彼女は目をパチパチと瞬かせ、自分を指さす。その面持ちが可愛らしくて愛おしいと、胸いっぱいに温かな感情が広がっていく。
「そう。お前に。少しでもおいしく、綺麗に盛り付けたいって必死になってた」
手を洗い直し、飾り包丁を入れていた胡瓜を再び手に取る。軽く漬けてあるので、少し柔らかくなっているから切りすぎて崩さないよう慎重に慎重に刃を進める。
松の葉に見立てた部分をゆっくり開いて形を整えると、詰めていた息が漏れた。
鮎魚女の昆布締めに酢橘と共に乗せて彼女の前に出す。
「はい、どうぞ」
彼女が差し出した皿を見てすごいと目を輝かせる。その顔を見て頑張ってよかったなと心から思う。そして、調理に集中しすぎるあまりこの顔を見逃さなくてよかったとも。
綺麗に飾りつけてあるから食べるのがもったいないとためらう彼女に俺は目を細めた。
「ううん、食べて。その胡瓜にも少し味をつけてあるんだ。昆布締めと一緒に食べたらお互いの味を引き立て合うようにね」
彼女は顔を上げ、食べてしまうのに綺麗に飾り包丁を入れるのはどうしてかと尋ねてくる。
「食べたらなくなってしまったとしても、目で楽しめるだろう? 料理はね。舌だけじゃなくて目でも楽しむんだよ」
師匠が何度も繰り返していた言葉を口にして、偉そうなことを言うようになったなと自身に苦笑いする。
「それと、どんな風に食べるかの『場』も大事。――その点、さっきまでの俺はお前と向き合えてなかったから減点だな。今から挽回させて?」
彼女は笑顔でうなずき、食べていた料理がどうおいしかったかとか、今日のドライブはちょっと怖かったけど楽しかったとか、嬉しそうに話し始める。その幸せそうな顔を見て、俺も幸せな気持ちになった。
(そう。俺が欲しかったのはこの顔だ)
しみじみ噛みしめていると、彼女はハッと息を飲み、それから俺にだけ見せてくれる笑顔で、おめでとうと改めて誕生日を祝ってくる。
胸がいっぱいになって、自然と頬が緩む。
「ありがとう。お祝いの言葉も、幸せそうに俺の料理を食べてくれてるのもすごく嬉しい。今日は最高の誕生日だよ」