
壁に掛かった時計の秒針がぐるりと一周回ったのを確認してから、ポットを手に取った。
そして、ゆっくりと挽いた豆に湯を注ぐ。
軽く全体を濡らすように湯を注いでから、いったんポットを濡れ布巾の上に置く。
(1、2、3……)
再び目で時計の秒針を追いながら、心の中でも秒数をカウントする。
粉を蒸らすのは、いい味を出すための基本中の基本だ。でも、普段ここまで意識することはない。
(……25、26――ん、27秒)
十分蒸らせたので、再びゆっくりとお湯を注ぐ。細く、手首を使ってぐるりとドリップの外縁をなぞるように。
ほんわかと立ち上る湯気と共にカカオに似た甘い香りが漂ってくる。
(うん、これこれ。この豆じゃないと出せないんだよな。苦労して手に入れた甲斐があったわ)
ある程度入ったらいったん止めて、ほどよく湯が落ちるまで待つ。それから、追加でまたゆっくりと湯を注ぐ。
カフェの店長にはあるまじき考えだとわかっているが、正直、こういった丁寧な淹れ方は性に合わない。
ある程度は勢いで乗り切ればいいと思ってるし、微妙な味の変化は愛嬌として受け止めてもらおうと考えている。
(今日の珈琲より明日の珈琲の方が好みかもしれない。だから、店に足繁く通うってのが理想だ)
けど、この珈琲は『特別』だから、できるだけ丁寧に淹れたかった。
どう淹れれば一番いいかも前もって確認済み。蒸らし時間もそう。使う豆や注ぐ湯の量もそう。
たくさんの人の『おいしい』じゃなくて、たったひとりの『おいしい』のために。
たっぷり時間を使って作業をしていたからか抽出を終える前に、店じまいを終えた彼女が俺のところへやってきた。
「――お疲れさん。今、珈琲が入るから、待ってな」
そう断って、雫が落ちきるのを確認し、ドリッパーを外す。
「ほら」
温めておいたマグカップに珈琲を注いで彼女に差し出すと、びっくりしたように目が丸まる。
「飲めよ。お前のために淹れたんだ」
どうして――と首を傾げられたが、俺がひたすら『反応』を待っていると気づいた彼女は、質問を飲み込んで、代わりに渡した珈琲を口に含む。
そして、おいしいと笑った。とてもいい笑顔で。
「そりゃ、よかった」
見たかった顔を見ることができて、俺の顔も緩む。
そんな俺に、改めてなぜ珈琲を出してくれたのかと質問が投げかけられた。
「ん。いつもお疲れさんっていう労いと――今日、誕生日だから」
理解が追いついていないのか、不思議そうな面持ちで彼女が目を瞬かせる。そのきょとんとした顔が可愛らしかったので、また笑みが漏れた。
ワンテンポ、置いて。
だったら俺が飲むべきだとか、お祝いはこの後渡す予定だったとか、彼女が慌てる。
「ははっ、逆サプライズになっちまったか」
見上げてくる彼女の視線を受け止め、その頭をぐしゃっと撫でた。
「もちろん、お前からのプレゼントも楽しみにしてる。けど、誕生日祝いにどうしてもお前の笑顔が欲しかったんだ。だから、一番いい顔してくれるうまい珈琲を淹れてみた」
俺の言葉に息を飲み、それから彼女の面持ちが華やかにほころぶ。
大好きな笑顔で彼女は祝福を口にする。俺が生まれた日を祝う言葉を。
「――サンキュ」
初めて会った時に、心を撃ち抜かれた笑顔。
きっと俺は、この先何度もこの微笑みにドキドキさせられるんだろう。今みたいに最高に幸せな気持ちをもらいながら。