Stellar Calendar

小さく扉を軋ませて外に出ると、冷たい空気が身体を包み込んだ。
口から漏れる息が白という形を取り、それから夜に淡く消えていく。
どうやら、今夜は一際冷え込んでいるらしい。
(道理で星が綺麗なわけだ)
小さく笑って、夜空を見上げる。そこには無数の星が輝いていた。
車を走らせること数時間の郊外に、この天文台はあった。
周辺に人が暮らす場所はなく、空気も綺麗だ。だからこそ、星々が自由に活き活きと輝いている。
(この国はスケールが違うな……)
日本からこちらに来て、もう何年になるか。
ここでの暮らしもずいぶん馴染んだけれど、それでも感覚の違いに時折衝撃を受ける。
たとえば、レギュラー珈琲の大きさとか、立ち並ぶビルの数や高さとか、人の手が加わっていない土地とか、夜空の澄み具合とか。
今夜みたいに冷え込んだ夜は、よりいっそう星が瞬いて、『あの夜』のように心を揺らす。
思わず感嘆の息を漏らすと、口元の空気がまた白く濁って、再び夜に消えていった。
その名残を視界の隅に捉えながら、自分の身体から白い『熱』を吐き出せる事に、ちょっとした感動を覚える。
けれど、今はその白よりも星々の輝きが俺の心を惹きつけてやまない。
よく表現される無数の星というのは誇張でもなんでもなく、俺たちの頭上には数え切れないほどの星があった。
その星々の向こうにはさらに広い宇宙(そら)があり、果てがないとも言われる空間にはもっと多くの星たちがひしめいている。
それこそ、俺たち人間が把握できていないような星も。
そう。
誇張でもなんでもなく、広大な宇宙の中で、俺たち人間は、等しくちっぽけな存在だった。
道行く人も、この国の人も、他国の人も、顔見知りも、見知らぬ誰かも、蝶のように可憐な母も、愛を得られない俺も。
(だから、俺は星や宇宙が好きなのかもしれない)
もっとも、それは後からこじつけた理屈で、結局は直感的にあの瞬く美しさに心を囚われているだけなのだけれど。
(そう、『あの夜』から――)
愛と同じように美しくて、確かに存在するもの。
「………………」
俺は星々に目を眇めた。
手は伸ばさない。絶対に届く事はないから。それも愛と同じ。

――お兄ちゃん。

脳裏に在りし日の声が蘇る。
ハッと横を見ると、昔の彼女の幻影が空に向かって手を伸ばしていた。
星をとってあげる……と、目をキラキラ輝かせながら。
俺はそんな彼女の幻に目を細める。
そして、まぶたを閉じ、彼女と過ごした昔に想いを馳せる。
星や愛に手が届かない俺が、唯一胸に宿す事のできる美しい光に――。

俺を産んでくれた人は、まるで蝶のような人だった。
綺麗な花を見つけてはふわふわと飛んでいく蝶のように、愛を求めてくるくると抱きしめ合う相手を変えた。
そう、あの人――母は、自分が産み落とした子供よりも、自分の心を満たしてくれる恋人の方が大事だったのだ。
でも、望むような愛が育てられなくて、心は満たされず、さらなる愛を求めて別の相手へと飛び立つ。
それほどまでに、『愛』という蜜は甘く、彼女の心を捉えて放さなかった。
だから、仕方ない。
俺はよく、寂しくて、苦しくて、お腹が空いて、喉が渇いて、暑さに痙攣し、寒さに凍えていたけれど、あの人がそんな俺に気づく事はなかった。それよりも、誰かの隣で幸せになる事に必死だったから。
『愛』の前では、俺の存在なんてあの人の頭から吹き飛んでしまう。ただ、それだけ。
母は美しく、可愛らしい人だった。そして、おっとりとして優しい人でもあった。
話に聞く他のネグレクトの親たちとは違って、俺に厳しく当たることもなかった。ただ、常に誰か俺よりも大切な人がいた。
俺は俺なりに母の事が好きで、あの人が誰かの隣で幸せそうに笑っていてくれればいいと、願っていた。
もちろん、忘れ去られるのはつらかったけれど。
同時に、俺を忘れるほど必死になっているのに、満たされることなく、愛を求めて飛び回り続ける母が悲しかった。
母ほど魅力的な人ですら、愛を得るのは難しい。
ならば、こんなちっぽけな自分など、愛に触れられるわけがない。
それが、とても切なくて、あの夜、俺は生きるのを諦めた。
電気を止められたアパートの一室で、畳に横たわりながら。
冷え込んだ空気は、身体を動かなくさせていて、もはや動くのは視線のみ。それすらも、もう億劫に感じていた。
空腹感はすでに消えていて、目を閉じれば命を終えられるのだろうと確信ができた。
ただ――少しだけ。
何かを求め、俺は視線を上げた。
心は平坦で、何かを感じる余力などなかったというのに。
カーテンの隙間から、夜空が見えた。空には、ぽつりと輝く光がある。
(ああ……)
静かな輝きは凍てついた俺の心を揺らす。
(……なんて、きれい、な――)
そうして、俺は目を閉じる。最後に美しい星の光が滲んだ事だけが残念だった。
薄れゆく意識の向こうで、誰かの声がした気がした。
でも、気のせいだろう。
母が帰ってくるはずがないし、響いてきたのは男の声だったのだから――。

そっと音を立てないようにベランダに出て、俺は夜空を見上げた。
冬の寒さはパジャマの上から肌を刺してきたけれど、なんてことはない。むしろ、今までに比べれば断然生ぬるく、こんな恵まれた状況ですら『寒い』と感じる自分に驚くぐらいだ。
空には薄雲がかかっていて、星はよく見えなかった。
(もっとも、街の中は明るくて星が見えづらいけど……)
俺とあの人が住んでいたアパートも街中にあった。でも、なぜ『あの夜』はあんなにも星が綺麗だったのだろうか。
そんな事をぼんやり考えながら冷たい夜風に吹かれていると、ふと小さな物音が響いてくる。
振り向くと、そこには彼女がいた。
「……どうしたの?」
俺は、彼女――できたばかりの妹に声をかける。
あの日、俺の命を拾い上げてくれたのは、母のかつての恋人で俺の父だった。
かろうじて俺の存在が頭の片隅にあった母は、父に俺の存在を連絡したらしい。
彼は慌ててあのアパートへと駆けつけ、死にかけていた俺を引き取ってくれた。
(もう、自分は新しい恋を育て家庭を築いていたっていうのに)
父が結婚した相手も、母とは違った優しさを持つ人で、俺を本当の息子のように受け入れてくれた。
そして、自分が産んだ子供と分け隔てなく接してくれようとしている。時に優しく、時に厳しく。そうして、俺は初めて『家族』ができた。
そう、『初めて』。
(ありがたい……んだろうな)
大切にされていると感じるからこそ、俺は身の置き場がなかった。
でも、それを態度に出すと、父も義母も妹――彼女も俺を心配する。だから、俺は何度もしたように、今もため息を飲み込んで彼女に微笑みかけた。
「眠れないの? それとも、喉が渇いた?」
俺の問いかけに小さく首を振り、彼女は同じ問いを俺に投げかけてくる。
一瞬言葉につまり、答えを求めるように俺は空を見上げた。
「星が見えないかな……と思って」
うまく説明できる気はしなかったし、幼い彼女が理解するのも難しそうだった。
なので、付随する余計な感情はすべてそぎ落として、端的な欲求のみを伝える。
倣うように彼女も空を見て、それから不思議そうに首を傾げた。幼い彼女にとって、雲と街灯りで薄められた星の光は見上げるに値するものではないのだろう。
「今夜はよく見えないけれど、雲ひとつない夜は……すごく綺麗なんだよ」
俺はあの夜見た星を思い描き、目を細める。せっかく命を長らえたのだから、またあの輝きを見てみたいと思う。
……と、横顔に視線を感じた。
空から目を落とすと、彼女がこちらを見つめている。そして、寒いかと俺に尋ねてきた。
「……ううん、寒くないよ」
首を振ってから、そうか普通は寒いんだろうな――と思い直す。
「お前は寒いだろう? だから、そろそろ部屋に戻った方がいいね。風邪を引いたら大変だから」
優しく告げたつもりだったが、彼女は下を向いてしまった。
(言い方を間違えたかな……?)
心配になって身をかがめる。顔を覗き込もうとすると、その前に小さな身体が飛びついてきた。
「わ……!?」
突然の事に、尻餅をついてしまった。まるで幼い彼女に押し倒されるように。
目を丸くする俺の耳元に彼女の声が響いてくる。
冷たい――と。
「…………うん。少し、冷えたのかも」
自覚はなかったけれど、彼女にとって俺は冷たい身体をしていたのだろう。だって、触れられた部分がとても温かい。
同じ事を彼女も思ったようで、こうしていると温かいと俺の耳を笑い声がくすぐる。
くすくすと。優しく。柔らかく吐息で耳を撫でながら。
「……っ」
ふいに、俺の中でもうひとつ、温もりが生まれた。
それはとても熱く、胸の奥底から膨れ上がって、内側から俺を潰そうとする。
「…………」
苦しくて、息ができなくなった。
膨れ上がった熱は出口を求めてぐるりと身体中を巡ると、やがて目からポロリとこぼれ落ちる。
一粒流れ落ちると、もう止まらなかった。
ポロリポロリと、あとからあとから涙が流れる。
その涙は俺にくっつく彼女の頬も濡らし、彼女はびっくりしたように身体を離した。
「ごめ、ん……」
心配かけないよう言い訳をしなければならないのに、言葉がうまく紡げない。いや、声すらまともに出せなかった。
そんな俺に、彼女はパチパチと目を瞬かせ、そして、優しく頭を撫でてくる。
大丈夫だよ……と、まるで幼子をあやすように。
その手の温もりが、彼女の優しさが、余計に胸をぎゅっと締め付けてきて、ますます涙が止まらなくなった。
小さな子供のように泣きじゃくる俺に、彼女はそっと寄り添ってくれた。優しく頭を撫でながら。愛おしげなまなざしを向けながら。
いつか綺麗な星が見れるといいなと呟く彼女に、俺はうなずく。
「……うん。その時は一緒に見よう」
顔を上げると、ぼやけた視界で彼女が嬉しそうに笑うのが見えた。
約束だと小指を差し出す彼女に、俺も小指を差しだし、指切りをする。
「ああ、約束する」
俺の言葉を聞いて、彼女が口を開く。

――ありがとう、お兄ちゃん……と。

思い出から今に気持ちを移して、俺は再び夜空の星を見上げた。
あの時とは違って、ここでは星が綺麗に瞬いている。
この星すべてを彼女に贈りたいとも思うし、この星々では彼女との約束を果たせないとも思う。
あの後、何度も彼女と星を見上げる機会があった。でも、そのどれもが約束した輝きには満たなかった。
それでも、彼女は嬉しそうに笑っていたし、手を伸ばす事を諦めた俺に代わって夜空に手を広げていた。俺の為に星を掴むんだと、意気込みながら。
そんな彼女が俺にとってかけがえのない存在になったのは、必然だったと思う。
そして、いつしか俺が幸せを願う対象も、母から彼女に替わっていた。
俺の隣でなくてもいい。ただ、幸せに笑っていてほしい――と、それだけを願う。
彼女と共に暮らしていた頃も、遠く異国の地にやってきた今も同じく。
忙しくてなかなか帰れない俺は、寂しがる彼女と4年に一度、帰る約束をした。
前回帰ってからそろそろ4年が経つ。
再び会えると思うと胸が躍る反面、自分の気持ちを抑えきれるだろうかと不安にも思う。
(……前、帰った時もなかなかキツかった)
傍にいない分、見違えるように綺麗になっていて、心がぎゅっと鷲づかみにされた。
ただ幸せになってほしいという気持ちに嘘はないのに、そこに自分の感情とか欲望が混ざってしまう。
(それでも、約束を果たしに帰らないと……)
俺は目を閉じ、そっと息を吐く。
俺の中から出た熱が、ふわっと肌に触れてから静かに消えていった。

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