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プロローグストーリー・Side 水瀬 蒼士

学食の一番端のテーブル、他の学生の集まりから離れたその場所はいつの間にか俺の定位置になっていた。受け取った食事をテーブルの上に置いて、一息つくように周囲へ目を向ける。そこには友人達と喋りながら食事をしている学生ばかりだった。やれ次の授業の課題がまだ終わってないだの、やれ今日の授業が終わったら遊びに行こうだの、自然と耳に入ってくる話題に俺は思わず顔を顰めた。
 授業も昼食も放課後も、四六時中他人と群れなければ気が済まない彼らを見るたびに「悠長な奴らだ」と思ってしまう。他人の時間の使い方に口を出すつもりはないが、俺はこの貴重な四年間を絵以外に時間を費やす気はない。今だってようやく、取りかかっている絵の輪郭が見えてきたところなのだ。
 俺は周りの喧噪から離れるようにそっと目を閉じ、頭の中でそのイメージを描き出す。目の前に広がるのは、深く、冷たい、海底のような蒼色。その深く沈んでいくような蒼を表現するにはどの顔料を使えばいいだろうか、この芯まで凍る水温を表現するにはどう描けばいいだろうか。思い浮かぶことは山ほどあるし、試したいことも山ほどある。こんな所で食事をしている時間すら惜しいほどだ。
 早く食べ終えて制作に戻ろうと、顔を上げ「いただきます」と手を合わせた、そのときだった。
「よ、蒼士」
「一人なら、オレ達と一緒に飯食おうぜ」
 同時に背後から声を掛けられたのと同時に、学食内の視線が一気に自分の方に向けられるのを感じた。正確に言えば、自分の背後にだが。
「はぁ……」
 食事をしようと開けた口から盛大なため息が漏れる。こんなことなら、余計なことを考えずにさっさと食事を終えれば良かった。そう後悔していると、右から抗議の声が上がった。
「なんだよ、そんなに嫌がることないだろー?」
「お前達と関わりたくないと何度も言ってるだろ」
 俺が突っぱねると、左側から笑い声が聞こえた。
「そう言いつつも、何だかんだ蒼士は無視せずに話してくれるよな」
「だよな! 蒼士君ってばやっさしい~!」
 そう言いながら、二人の男が俺の両脇の席に座ってくる。こういうとき、何故かこの二人は決まって俺の両側を固めるように座ってくる。向かい側に座ってくれれば、さっさと立ち去るなり席を変えるなりできるのだが、横に並ばれると決まって両側から腕を捕まれて拘束されてしまう。その息の合わせ方は、正直腹立たしさまで覚えるほどだ。
 左に座った食えない男が黒住絃静、右側に座った騒がしい男が窪田縁。どちらも、たまたま同じ日本画専攻の学生だからという理由で執拗なまでに俺に付きまとってくる。正直、迷惑極まりない。
「お前、また蕎麦なのか?」
 俺の前の前に置かれたざる蕎麦を見ながら、縁は呆れたような声を出す。
「たまには違うモノも食べろよ。栄養偏るぞー?」
「……手早く食事を終えるには、冷ます手間がないざる蕎麦が一番効率が良い。それに、その点に関してはお前達に言われたくない」
 俺は二人の持ってきた昼食をさして、言い返した。今日も縁はカレーで、絃静はうどんだ。
「いやいや、たまにはちゃんと別の物も頼んでるって。なぁ、縁?」
「そうそう。この大学、何食べても美味いもんなぁ、絃静」
「……どうだか」
 絃静の下手くそな言い訳と縁のうさんくさい同意の言葉を聞き流しながら、俺はようやくざる蕎麦に手を付ける。俺が学食で昼食をとる日は、決まって絃静はうどん、縁はカレーを持って両脇を陣取ってくる。つまり、ほぼ毎日と言ってもいい。
 二人が「いただきます」と手を合わせてから食事に手を付け始めたのを横目で見つつ、俺はざる蕎麦を胃の中に流し込んだ。確かに、ここの学食の味は悪くはない。
 二人よりも先に食事を終えたあとも、俺はこの二人の無駄話を聞きながら席で待たなければいけない。前に、無視して先に行ったとき、「何で先に行ったんだよ」と絵を描いている最中も散々二人から恨み言を言われ、その日は全く集中できなかった。だから、無視するよりもこうして適当に付き合った方がこちらの被害は少なくなる。本当に、厄介な話だ。
「そういえば、絃静。新しい家族ちゃんってここにいる?」
 カレーを掬うスプーンの動きを止め、縁がそんなことを口にした。
「家族、ちゃん……?」
 聞き慣れない言葉に、思わず俺が聞き直すと縁がすぐさま食いついてくる。
「あれ、蒼士はまだ聞いてない? 絃静の親が今度再婚して、母親と妹ができるみたいでさ。そのうえ、新しい家族ちゃんこと妹ちゃんもこの大学に通ってるんだと」
「……ふーん」
「聞いてきたわりに反応薄いな~? 絃静の新しい家族、どんな子か興味わかないか?」
「別に。興味はない」
 他人の家族事情なんて、それこそ厄介ごとの塊みたいなものだ。そんなものに喜んで首を突っ込む趣味はない。俺の反応が面白くないと分かった途端、縁は「それでどうなんだよ」と絃静をせっつき始めた。
 絃静はぐるりと学食内を見回してから、小さく首を横に振る。
「いない」
「何だ、つまんないの。可愛いと噂の新しい家族ちゃんと会えると思ったのに」
「集中すると食べるのも忘れるタイプみたいだから、どこかで絵描いてるのかもな」
 そう笑って絃静はまたうどんを啜り始めたが、その中の言葉の一つに俺は珍しく興味を引かれた。
「……そいつ、絵を描くのか?」
 俺が口を開いた瞬間、絃静も縁も驚いたように視線をこちらに向ける。
「そうだよ、専攻も同じ」
「日本画か」
 絃静が頷いたのを見て、俺は「そうか」と小さく呟いた。他人の家族に興味はないが、同じ日本画を描く人間ならばどんな絵を描くのか興味はある。写実的なのか、抽象的なのか、どんな色を好むのか……そんなことを考えていると、やけににやにやした顔の縁が声を掛けてきた。
「今、その子がどんな絵を描くのかって考えてただろう?」
「………………」
 思考を読まれた気がして俺が押し黙ると「図星か」と縁が声を上げて笑い始める。
「蒼士はそればっかりだよな~。頭ん中、絵のことばっかり考えて、人間に興味なさすぎ。そんなんだから、童貞なんだぞ」
 縁の茶化すような発言に、俺は心底嫌気がさしてくる。芸術大学と名の付くこの大学に通っている人間が、絵のことを考えて何が悪い。そもそも、それと性行為の有無には何の関係性があるというのか。馬鹿馬鹿しい。言い返すのも面倒で、俺が食器を持って無言で立ち上がると、両側から腕が絡んできた。左腕は絃静、右腕は縁に掴まれる。
「おいおい、そんなに怒るなよ~。悪かったって」
「縁のいつもの冗談だろ。落ち着けって、な?」
 へらへらと鬱陶しい笑みを貼り付けながら俺を引き留める二人に、どうしようもなく苛立ちを感じて睨み返す。つまらない冗談を言ってはこちらの反応で遊ぶくせに、本気で怒ると途端に態度を変える。これだから、人と関わり合いたくないのだ。人と関わって良かったことなど、俺の人生でほとんどない。そこまで考え、ふと脳裏を掠めたのはもう長く帰っていない実家のことだった。
(……もう二度と、あんな家に帰るものか)
 俺にとって、家族は自分を縛る鎖のような存在だった。家族という名目で、幼い頃から雁字搦めに縛られてきた俺はそれでも自分の大事なものを守るために、必死であの家から脱けだしてここまで逃げてきた。
 だから、新しい家族に浮かれているような絃静や縁のことを、俺はさっぱり理解できなかった。
(家族なんて、増えたところで煩わしいだけだろう)
 思わず面白くないことを思い出してしまい、俺は二度目のため息をつく。そのため息に気がついた絃静がこちらを向いて小さく笑った。
「あーあ。縁が調子に乗っていじめるから、蒼士拗ねちゃったじゃん」
「えーー、オレのせいなの?」
「いや、どう考えても縁のせいだろ。よーしよし。蒼士、いい子いい子」
「……触るな鬱陶しい」
 気持ち悪く頭を撫でてきた絃静の手を強く払いのけながら、俺は気を紛らすために描こうとしている絵のイメージを思い返す。
 早くこのつまらなくて無意味な時間を終えて、無心で絵を描きたい。目の前で交わされる二人の雑談を耳に入れることなく、俺はそればかり考えていた。

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